仙台港で一時下船しました。普段は乗船・下船ともに車で行うので、こうやってボーディングブリッジを歩くことはめったに無いんですよね。
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ボーディングブリッジの窓から「いしかり」の船体を眺めます。このアングルだとますます「のぞみ」っぽく見えるような……(汗)。
続きを読むやあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
川湯温泉の北東、国道 391 号の東に聳える標高 381.4 m の山です。頂上付近に二等三角点がありますが、三角点の名前は何故か「川湯」です。
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
此源に
ニタトルシベ
といへる高山有。此峯つゞきシャリ領のヤンヘツ岳なり。東え落るはワッカヲイのサツルヱの源となる。此辺数十里の平地茅原のよし也。
改めて明治時代の地形図を見てみると、山名は「ニタトルシユペ」となっていました。大正から昭和にかけて作図された陸軍図では「ニタトルシュケ山」となっているので、その間に「ペ」が「ケ」に化けたといったところでしょうか。
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」には次のように記されていました。
ニタトルシペ
川湯市街の北東に位置する、標高380.4㍍の山。
ニタッ・オロ・ウㇱ・ペ「nitat-oro-us-pe 湿地・の所・にいる・もの(山)」の意で、湖からこの山裾までは広い湿地帯である。
あれ、いつの間にか山名が先祖返りしていますね。地形図ではずっと「ニタトルシュケ山」表記のように見えるのですが、地元では「ニタトルシペ」と呼ばれていた……とかでしょうか。
nitat-oro-us-pe で「湿地・その中・そこにある・もの(山)」との解釈で良さそうな感じですね。何故「シペ」あるいは「シュペ」が「シュケ」に化けたのかは……謎です。
ニタトルシュケ山の北から西を流れて、アメマス川に合流する川です。地理院地図には川として描かれていますが、残念ながら川名の記入はありません。
明治時代の地形図には「キナチヤウシ」という名前の川が描かれているのですが……何故か「ニタトルシユペ」の *南側* を流れていることになっています。
また、現在の「アメマス川」の下流部には「キナ
Kina cha oro キナ チャ オロ 蒲ヲ刈ル處 安政帳ニ中川トアルハ是レナリ
ただ、「キナチャオロ」と「キナチャン沢川」では少し違いがあるように思えますし、上流部(ニタトルシュケ山の北か南かという大きな問題はありますが)には「キナチヤウシ」という川名が描かれているので、「キナチャン沢川」は「キナチャウシ」だったか、あるいはそれに類する別名だったと考えたいです。
「キナチャン沢川」が「キナチヤウシ」だったのであれば、kina-cha-us(-nay?) で「草・刈る・いつもする(・川)」ということになりますね。ただ、「キナチヤウシ」が本当に「ニタトルシュケ山」の南東側の川だったとすると、「キナチャン沢川」は kina-cha-an-nay で「草・刈る・反対側の・川」とかでしょうか。
この場合の an- は ar- の音韻変化形なのですが、こういった用法はこれまで見た記憶が無いので、ちょっと無理がありそうな予感もするのですが……。
国道 391 号と道道 102 号「網走川湯線」の間を流れて、最終的には「アメマス川」に合流する川です。地理院地図には川として描かれているものの、やはり川名に記入はありません。
明治時代の地形図では、この「トーパオマプ川」のことと思しき「トーバオマ」という川が、ニタトルシュケ山の北、野上峠の南のあたりから西に向かって屈斜路湖に注ぐように描かれていました。
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。
またセヽキベツより並びて
トマヲマフ
此川端延胡索多きによって号。トマは延胡索、ヲは多し、マフは有る儀也。是沼の内第一番の大川也。此源に
ニタトルシベ
といへる高山有。
なんか色々と不思議な感じがしますね。「トーパオマプ川」ではなく「トマヲマフ」だとするのは良いとして、「是沼の内第一番の大川也」というのは……?
改めて明治時代の地形図を眺めてみると、「セセㇰペッ」(=湯川)と「キナチャオロ」(=アメマス川)の北に「トーパオマ」という川が描かれていました(「マ」の後ろに別の文字がついているかもしれませんが判読できず)。陸軍図では川湯温泉の北に湿地が広がっているように描かれているので、現在「アメマス川」として注ぐ水の多くが、当時は北側の「トーパオマ」を流れていた可能性もありそうです。
「トーパオマ」であれば to-pa-oma で「湖・かみて・そこにある」と考えられますが、「東部久須利誌」では「トマヲマフ」とあり、これだと toma-oma-p で「エゾエンゴサクの根・そこにある・もの(川)」と解釈できます。
これはちょっと悩みどころですが、幸いなことに永田地名解にも記載がありました。
Tō pa omap トー パ オマㇷ゚ 沼頭ニ在ル川 安静帳大川トアリ
あー、やはりと言うべきか to-pa-oma-p と考えたようですね。多数決というわけでは無いですが、to-pa-oma-p で「湖・かみて・そこにある・もの(川)」と考えて良さそうです。
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JR 釧網本線の川湯温泉駅の西南西、マクワンチサップの東南東に位置する山の名前です。地名としては漢字で「
戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていました。興味深い内容なので前後を含めて引用します。
セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシャフ、また其前にマツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
アトサシリ
といへる高山有。其高山マシウの西の方につヾく。山皆岩山にして草も木もなく皆硫黄山也。其山のもえさし沢より流れ来る川なるが故に、常に湯の如く涌立有るが故に此セヽキヘツの名有りと思わる。水至て酸し。
文脈からは「アトサシリ」が現在の「アトサヌプリ」のことで、「セセキベツ」は「湯川」のことだと考えられます。
永田地名解には次のように記されていました。
Atusa nupuri アト゚サ ヌプリ 裸山 一名硫黄山
atusa-nupuri で「裸である・山」ということになりますね。
知里さんの「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。
atusa [複 atus-pa] アと゜サ 《完》裸デアル(ニナル)。──山について云えば木も草もなく赤く地肌の荒れている状態を云う。[<at-tus-sak<ar-rus-sak(全く・衣を・欠く)]
アトサヌプリを上空から見ると、この山の周辺だけ緑が異様に少ないことに気づきます。この緑の少なさは火山活動によるものですが、緑が少ないことを指して「裸の山」と呼んだということのようですね。
「──小辞典」には atusa の次に atusa-nupuri が立項されていました。
atusa-nupuri アと゜サヌプリ 【H 北】もと‘裸の山’の義。東北海道・南千島で溶岩や硫黄に蔽われた火山を云う。
かなりそのまんまでしたね。atusa-nupuri は「裸である・山で、意味するところは「火山」と考えて良さそうです。
アトサヌプリと川湯温泉駅の間を北に向かって流れて、川湯温泉の中心部を通って屈斜路湖に注ぐ川です。現在名は思いっきり和名っぽいですが、この川は戊午日誌「東部久須利誌」に「セセキベツ」と記録されている川のことだと考えられます。
永田地名解にも次のように記されていました。
Sesek pet セセㇰ ペッ 湯川
いかにもざっくりとした解釈ですね。sesek は「熱い」「熱くなる」「温かい」「沸く」あるいは「なまぬるい」「暑い」などを意味し、厳密には「湯」という意味は無さそうです。
sesek-pet を直訳すれば「熱い・川」になるのかもしれませんが、「川が熱い」ことを「湯の川」と言い換えるのは想像の範囲内ですよね。そもそも「温泉」を意味する sesek-i 自体が「熱い・もの(ところ)」ですし……。
更に言ってしまえば、現在の「湯川」という川名が sesek-pet の「和訳」であるかどうかも疑わしいかもしれません。仮に sesek-pet という名前が無かったとしても、ぬるま湯が流れる川のことを「湯川」と呼んでいた可能性も十分ありそうなので。
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。
「伊藤の優秀性」を列挙したイザベラでしたが、やはりと言うべきか、「伊藤の欠点」についてもちゃんと言及しています。
彼は同じことを如才なく繰り返し、すべて自分自身の利益にしようという意図を隠さない。
「すべて自分自身の利益にしようとする意図を隠さない」というのは「抜け目がない」と言い換えることができるでしょうか。いや、それよりは「野心家」と言ったほうがいいのか……?
彼は給料の大部分を、未亡人である母に送る。「この国の習慣です」と言う。残りは菓子や煙草に使ったり、しばしば按摩にかかるのを楽しみにしているようである。
あれっ。これは普通に良い話ですよね。伊藤は当時 18 か 19 の筈ですが、過酷な旅を続けると肉体的にも疲労が溜まる一方でしょうから、マッサージを楽しみにするというのは理解できます。
彼が、自分の目的をかなえるためなら嘘もつくし、私に見られないならとことんまで上前をはねていることは、疑いない。
「私に見られないなら」と前置きしつつ「疑いない」と言うことは……。イザベラが根拠のない「単なる憶測」でここまで断言するとも思えないので、やはり何らかの「証拠」があったと見るべきなんでしょうね。「代理人ビジネス」はある意味「上前をはねる商売」とも言えますが、イザベラがここまで悪し様に書くということは、上前のはね方が相当なんでしょうか……。
彼は、悪徳の楽しみ以外には、やる気もないし知ってもいないようだ。
イザベラ姐さん、調子が上がってきましたね……。
彼の率直な言葉は、人を驚かせるものがある。どんな話題についても、彼は遠慮というのを知らない。
これはある意味現代的というか、若者的な感じもしますね。露悪的というか、ちょっと色々と拗らせた感じがある……と言ったところでしょうか。もちろん給料の大半を仕送りに当てたりして孝養に尽くしている側面もあるわけで、根っからのアウトロー(死語?)というわけでも無さそうですが……。
ただ、イザベラは伊藤の「炎上覚悟でぶっちゃける」性格について「わかりやすい」と捉えていた節もあります。イザベラが伊藤のことを「抜け目のない野心家で自分の利益になることなら何でもする」と見抜いていたのも、伊藤の「わかりやすい」性質によるものとも言えそうです。
彼の前の主人のことは別として、彼は男や女の美徳をほとんど信じない。
伊藤がイザベラの前に現れた(面接にやってきた)くだりを改めて読み返してみたのですが、「前の主人のこと」が具体的に何を指すのかは良くわかりませんでした。一体何があったんでしょう……?
イザベラは、伊藤が自らの国についてどう考えていたかについても詳らかに記していました。伊藤は日本が海外からあらゆるものを貪欲に取り入れるべきだと思っていて、同時に日本の優れたものを海外に広めるべきだと考えていたようです。日本が数百年に亘った「鎖国」を解いたことに好意的だったと見られますが、「通訳」を生業にしているくらいですから、これはまぁ当然のことでしょうか。
外国もそれと同じほど日本から学ぶべきものがあるし、やがて日本は外国との競争に打ち勝つであろう、と信じている。なぜなら、日本は価値あるものをすべて採用しキリスト教による圧迫を退けているからだという。
ここが面白いところで、これは「師範学校」でのやり取りとほぼ同じなんですよね。欧米の文明が「キリスト教の価値観」の上に成り立っていることを知ってか知らずか、「キリスト教による圧迫」と表現しているところも気になるところです。
また「やがて外国との競争に打ち勝つだろう」という考え方……というかメンタリティは、どことなく「改革開放」以降の中国のイメージとも重なるものがありますね。
愛国心が彼のもっとも強い感情であると思われる。スコットランド人やアメリカ人は別として、こんなに自分の国を自慢する人間に会ったことがない。
どうやら伊藤の不遜な態度や露悪的な言動は、「愛国心」を拗らせたものである可能性がありそうですね。「黒船」による恫喝で、不平等な形で開国を強いられたことが、伊藤の態度に暗い影を落としているようにも思えます。
彼は片仮名も平仮名も読み書きできるので、無教育者を軽蔑する。
これも残念な感じのエピソードですね。
彼は外国人の地位や身分に対して、少しも尊敬も払わないし価値を認めないが、日本の役人の地位身分に対しては非常に重きを置く。
うーむ、これは……。海外の文物を積極的に取り入れようとする時点で「国粋主義者」では無いのでしょうが、その一方で海外の文化や文明には敬意を払う必要はないという考えでしょうか。日本の役人にペコペコするのは処世術なのかもしれませんが、これもちょっと残念な感じでしょうか。
彼は女性の知能を軽蔑するが、素朴な茶屋の女に対しては町育ちらしくふざける。
「無教育者差別」「外国人差別」に加えて「女性差別」でしょうか。こうやって書き並べてみると最低最悪な人間ですが、昔の日本はこれが当たり前だったという説もあると言えばある訳で……。
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