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「日本奥地紀行」を読む (137) 久保田(秋田市) (1878/7/24)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十三信」(初版では「第二十八信」)を見ていきます。

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

長雨

イザベラは久保田(秋田)で病院や師範学校、工場の見学に二日ほど費やした後も、止むこと無く降り続く雨のために出発できずにいました。

次々と旅行者が来て、道路が通れなくなったとか、橋が流されたという話をする。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.261 より引用)

これは現代でも良くある光景ですね。もちろん当時の交通網は現在のものと比べると遥かに脆弱なのですが、どれだけ「強靭化」しても自然災害は普通に想定を上回ってくるのが恐ろしいところです。

信頼できる召使い

ネタが尽きたから、というわけでも無いとは思いますが、ここで何故か召使い兼通訳である伊藤(伊藤鶴吉)の話題に移ります。

伊藤はよくおもしろいことを言って私を笑わせる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.261 より引用)

伊藤が口にするのは「ジョーク」と言うよりは「ホラ吹き」のようで、イザベラは次のような具体例を示していました。

そこで彼はいつもほらを吹く。学生たちはすべて教育ある人間や東京の住民のように、口を閉めているが、いなかの人間はみな口を開けたままであることに気がついたか、と私にたずねた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)

決して上品なホラとは言えないですが、まぁ「そんな時代だった」と言うことでしょうか。

伊藤がイザベラの前に現れた時から、イザベラは伊藤のことをあからさまに不審に思っていたものの、二ヶ月ほど旅を続けたことでイザベラにも心境の変化があったようです。

 私は近ごろ伊藤についてほとんど何も言っていないが、日毎に彼を頼りにしているように思う。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)

まぁ外国人が日本を旅する上で通訳を「頼りにする」のは当たり前ですが……あれ、原文を見るとちょっとニュアンスが異なるような……。原文はこうなっていて、

I have said little about him for some time, but I daily feel more dependent on him, not only for all information, but actually for getting on.
(Isabella L. Bird, "Unbeaten Tracks in Japan" より引用)

時岡敬子さんはこれを次のように訳していました。

このところ伊藤についてはあまり手紙に書いていませんが、情報収集という点ばかりでなく、実際に旅を続けていく上において、彼を頼る気持ちが日に日に強くなってきています。

ああ、やはり「情報収集」で伊藤を頼るのは当然のこととして、旅を続ける上での「パートナー」としての側面が強くなってきている、ということですね。

伊藤は宿泊の際にイザベラの「時計・旅券・所持金の半分」を預かるとのこと。これはイザベラにとって随分と分の悪い取引に思えるのですが、伊藤はどのようにしてイザベラからこれらの「条件」を引き出したのでしょうか。

もし彼が夜中に逃亡したら私はどうなることだろうかと、ときどき考える。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261 より引用)

そうなんですよね。仮に伊藤が逃亡しただけでも、イザベラは周囲とのコミュニケーション不全に陥るのが目に見えているわけで、ただでさえ危険が大きいのに何故「パスポートを預ける」というような危険を冒したのか……?

まぁイザベラが所持金を手元に置いたならば、それはそれで盗賊の格好の餌食になりそうですし、所持金の半分をイザベラの枕元に残すというのは伊藤の良心なのかもしれませんが……。

伊藤の格付けを「信頼できるパートナー」に上げたイザベラですが、その一方で次のようにも記しています。

彼は決して良い少年ではない。彼は私たちの考えるような道徳観念を持っていない。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.261-262 より引用)

どうやら伊藤は「腹黒だが信頼できるパートナー」という格付けが正しいのかもしれません。イザベラは伊藤の態度が不遜であるとして、次のように不快感を示しています。

彼は外国人を嫌っている。彼の態度は実に不愉快なときが多い。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

ただその一方で、イザベラは伊藤以上の「召使い兼通訳」を雇えていたかどうかは疑わしいとした上で、伊藤の語学力を次のように評しています。

東京を出発するとき、彼はかなりうまい英語を話した。しかし練習と熱心な勉強によって、今では私が見たどの通訳官よりもうまく話せるようになっている。彼の語彙は日毎に増している。彼は単語の意味を覚えると、決して不正確に使用しない。彼の記憶力はたしかである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

伊藤の格付けは「腹黒だが極めて優秀で信頼できるパートナー」に変化したようですね(格付けとは)。

伊藤の日記

イザベラの「伊藤ネタ」が続きます。

彼は日記をつけ、英語と日本語と両方を書きこむ。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

旅の記録を残すのは理解できるとして、英語と日本語の両方で記していたとは……! これはイザベラのことを考えてのことなのか、それとも英語のトレーニングなのか……イザベラは後者だと考えたでしょうが、果たして……?

それを見ると、非常に苦労して物事を観察していることが分かる。彼はときどき日記を私に読んで聞かせる。彼のように旅行の経験の多い青年から、この北国で新奇に感じたことを聞くのはおもしろい。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

これまでもイザベラの「日記」が異常なまでに「鋭い」内容になっているケースがありましたが、その一部は伊藤の日記から詳細を拾っていた可能性もありそうですね。

ここまで見ると、伊藤は凄まじい向学心の持ち主であることがわかりますが、その上に実務面でも優秀だったようで……

彼は宿泊帳と運送帳をもっていて、請求書と受取書をすべて書きこんである。彼は毎日あらゆる地名を英語の文字に直し、距離や、輸送と宿泊に払った金額を書きこむ。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

これはイザベラのリクエストだったのかもしれませんが、リクエストを卒なくこなすあたり、やはり只者では無いですね。

伊藤の優秀性

イザベラは、伊藤がどのような点で優秀なのか、次のように具体例を挙げていました。

 彼は各地で、警察や駅逓係からその土地の戸数や、その町の特殊の商業をたずねて、私のためにノートに記しておく。彼は非常な努力を払って正確に記録しようとする。不正確な情報のときには、「確かでないなら書きこむ必要はありません」と言う。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

あー。イザベラの「日記」の地誌的な側面が異様に強くなったのも、伊藤の努力の賜物だったのですね。いや、そりゃまぁそうだろうと思ってはいましたが、イザベラの通訳をしていただけではなく自主的に取材していたということになるので、もう「召使い」ではなく「アシスタント」と呼ぶべきですよね。

彼は決して遅くならず、怠ることもなく、私の用事以外は夕方に外出することもない。酒には手を触れず、言うことに従わぬことは一度もない。同じことを二度言ってやる必要もなく、いつも私の声の聞こえるところにいる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.262 より引用)

ここまで見た限りでは、伊藤の特性は次のあたりでしょうか。

  • 腹黒
  • 態度が悪い
  • 向学心が強い
  • 実務能力が高い
  • 職務に忠実

好ましくない点もあるとは言え、美点がそれを遥かに上回っている、と言ったところかもしれません。

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北海道のアイヌ語地名 (971) 「和骨・サワンチサップ・マクワンチサップ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

和骨(わこつ)

pena-wa-an-wa-kot?
川上のほう・に・ある・岸・凹み
pana-wa-an-wa-kot?
川下のほう・に・ある・岸・凹み
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

屈斜路湖の東岸、弟子屈町仁伏にぶしの西に小さな山があるのですが、その頂上付近に「和骨」三等三角点があります(標高 195.7 m)。

「オヤコッ」説

明治時代の地形図には「オヤコツ」と描かれています。また鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」にも次のように記されていました。

オヤコツ
和骨(営林署図、図根点名)
 仁伏温泉の西側で、半島のように突き出ている所の地名。
 和琴半島と同じ地名でオ・ヤ・コッ(o-ya-kot 尻が・陸岸・についている」の意である。このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.336 より引用)※ 原文ママ

ふむふむ。o-ya-kot が「和骨」に化けたのか……と思ったのですが、改めて戊午日誌「東部久須利誌」を見てみると……あっ。

また並びて(北東)のかた
    ヘナワーコチ
此処一ツの出岬に成り、其岬の鼻また山に成居るとかや。また其並びに
    ハナワーコチ
と云て同じき様成岬に成るよし、並びて
    ニベシ
ニブシなるべし。是土人の庫の事也。木を組上て立しもの。此辺え土人等鹿のアマホを懸に来り、其取りし肉を其庫え入置為に作りしもの也。其盾多きか故に号る也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.448 より引用)

「ニベシ」(仁伏)の手前(南西側)に「ヘナワーコチ」と「ハナワーコチ」という地名が記録されています。「オヤコッ」と「ワーコチ」のどちらが「和骨」の由来かと言えば……後者の可能性を考えないといけませんよね。

「ワーコチ」説

「ワーコチ」が wa-kot-i であれば「岸・ついている・もの」と読めそうでしょうか。ただ「ヘナ」と「ハナ」とあり、これらは pena-pana- で「川上のほう」と「川下のほう」を意味します。要は似たような地形が二つ並んでいる……ということになるのですが、このあたりでは「和骨」三角点以外にそれらしい地形(出岬)が見当たりません。

ただ、これは kot を本来の「凹み」という意味で捉えれば良いということかもしれません。小さな山状の岬があるということは、その東西に「谷」がある、ということになるので、pena-wa-kot で「川上のほう・岸・凹み」あるいは pena-wa-an-wa-kot で「川上のほう・に・ある・岸・凹み」と考えて良いかと思われます。

改めて考えてみると、鎌田さんが「このあたりでは半島をオヤコツと呼んだのであろうか」と記したのは全くその通りで、実際に o-ya-kot と呼ばれていたと考えられます。ただ「和骨」という三角点の名前を半島の東西にある「凹み」から取ってしまったので、ちょいと妙なことになった……と言えそうです。

サワンチサップ

sa-wa-an-chisa-p??
手前・に・ある・泣く・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

仁伏の南東、川湯温泉の西南西に位置する山の名前です。「サワンチサップ」「マクワンチサップ」「アトサヌプリ」が三連山のようになっていて、その中では最も北西に位置しています。

「手前の岩山」説

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 サワンチサプ山
 川湯の裏山。手前(湖寄り)の岩山の意、俗にシャッポ山という。

この「サワン」は sa-wa-an で「手前・に・ある」と考えて良さそうな感じですね。お隣の「マクワンチサップ」は mak-wa-an で「奥・に・ある」となりそうなので。

問題は「チサップ」で、更科さんはこれを「岩山」としましたが、果たしてそんな意味があるのかどうか……?

「手前の『前に出るもの』」説

鎌田正信さんは「道東地方のアイヌ語地名」にて次のように記していました。

サワンチサプ
サワンチサップ(地理院図)
 川湯温泉市街の西方標高520㍍の山。山麓にはスキー場が設けられており、地元では帽子山と呼んでいる。
 サ・ワ・アン・チ・サンケ・ㇷ゚(sa-wa-an-chi-sanke-p 前・に・いて・浜に出て来る・もの(山)」の意である。これは屈斜路湖の沖(北東)から舟で仁伏方面に帰る時に、だんだん舟が進むと手前にあるこの山が、湖岸に迎えに出て来るように感じとったのであった。
(鎌田正信「道東地方のアイヌ語地名【国有林とその周辺】」私家版 p.341-342 より引用)※ 原文ママ

んー。sa-wa-an-{chi-sanke}-p で「手前・に・ある・{前に出る}・もの」と考えたのですね。ただ戊午日誌「東部久須利誌」には次のように記されていて……

並びて
     セヽキベツ
此辺のうしろにチシヤフノホリと云山有。其また山のうしろにサワンチシヤフ、また其前に、マツカンチシヤフ等三ツ並び、第一の上に
     アトサシリ
といへる高山有。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.449 より引用)

「サワンチシヤフ」が「サワンチサップ」のことで、「マツカンチシヤフ」が「マクワンチサップ」のことだと思われるのですが、そうすると最初に出てきた「チシヤフノホリ」が何なのか……という疑問が出てきます。ただ「第一の上に『アトサシリ』」とあるので、「チシヤフノホリ」は現在の「アトサヌプリ」のことと考えられそうでしょうか。

本題はここからで、「サワンチサップ」のことを松浦武四郎は「サワンチシヤフ」と記録していたと見られます。これが「サワアンチサンケㇷ゚」に化けて、現在は「サワンチサップ」に戻った……というのも、ちょっと考えづらいように思えるのですね。

「手前にある『泣くもの』」説

結局のところ「チサップ」をどう読み解くか……という話に戻るのですが、久保寺逸彦さんの「アイヌ語・日本語辞典稿」によると {chisa-chisa} で「泣きに泣く」を意味するとのこと(動作的反復形)。chis も「泣く」という意味ですが、chisa もほぼ同じような意味で使われる、のかもしれません。

となると sa-wa-an-chisa-p で「手前・に・ある・泣く・もの(山)」ということになりますが、もしかしたら山から噴煙を上げる様を「泣く」と表現したんじゃないかな……と。

現在も噴煙を上げているのは「アトサヌプリ」だけだと思いますが、戊午日誌「東部久須利誌」の記述を見ると「アトサシリ」の下部を「チシヤフノホリ」と呼んでいたようにも見えます。

「マクワンチサップ」と「サワンチサップ」も「アトサヌプリ」と同様の溶岩ドームのため、あるいは火口から溶岩が流れ出る様を「泣く」と表現した可能性も……あったら面白そうですよね(少なくとも「アトサヌプリ」の活発な火山活動を目撃したアイヌは存在していたような感じが)。

マクワンチサップ

mak-wa-an-chisa-p??
奥・に・ある・泣く・もの(山)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

既に語り尽くした感もあるので、改めて立項するまでもないという説もありますが……。「マクワンチサップ」は「サワンチサップ」の南南東、「アトサヌプリ」の北西に位置する標高 574.1 m の山です。頂上には「硫黄山」という名前の三等三角点もあります。

戊午日誌「東部久須利誌」に「マツカンチシヤフ」とあるのは前述の通りで、明治時代の地形図には「マクワンチサㇷ゚」と描かれていました。

「マクワンチサップ」は「サワンチサップ」と対になる山……という認識でほぼ間違いないでしょう。mak-wa-an-chisa-p で「奥・に・ある・泣く・もの(山)」と考えてみたいです。

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北海道のアイヌ語地名 (970) 「ユクリイオロマナイ沢川・ホロカサル川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ユクリイオロマナイ沢川

yuk-ru-iwor-oma-nay?
鹿・路・山の谷あい・そこにある・川
yuk-ru-e-wor-oma-nay?
鹿・路・その頭・水の中・そこにある・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

「タテクンナイ川」の 1.8 km ほど上流側で斜里川に合流する東支流(北支流)です。永田地名解にはそれらしい記録が見当たりませんが、「斜里郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ユコロマナイ斜里川左支流) 「ユク・オロ・オマ・ナイ」(yuk-oro-oma-nay 鹿が・そこに・入る・沢)。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.257 より引用)

ふむふむ。yuk-oro-oma-nay で「鹿・その中・そこにある・川」となるのですが、改めて考えてみると少々意味不明なところがあります。たとえば「イワオロマナイ」という川(中斜里駅の南のあたりに存在したと思われる)の場合、iwa-oro-oma-nay で「岩山・の所・にある・川」だとされます。

同じ考え方で「ユコロマナイ」を読み解くと「鹿・その中・にある」あるいは「鹿・の所・にある」となるのですね。故に知里さんは「鹿が・そこに・入る」としたのでしょうが、それだったら yuk-oma で「鹿・そこに入る」と解釈できるので、あえて oro を加える余地は無さそうにも思えるのです。

鹿が死ぬ川?

実は oro-oma で「病死する」あるいは「それがために死ぬ」とも解釈できるのだとか。たとえば知里さんの「人間編」には次のように記されています。

(32) 病死する oro oma 〔o-ró|o-má オろ・オま〕[oro(その中)+oma(に入る)]《ホロベツ》

穿った見方をすれば、yuk-{oro-oma}-nay は「鹿・{死ぬ}・川」とも読めてしまうのかもしれません。

鹿の路のある川?

改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を見てみると、「サツルフト」のすぐ近くに「ユツコロマナイ」という川が描かれています。これは「アタツクシヤ」や「ヲロカサラ」よりも遥かに手前(海側)に描かれているので、どこまで信用できるかという話もあるのですが、知里さんが記録した「ユコロマナイ」とそっくりなんですよね。

そして明治時代の地形図を見てみると、現在の川名とほぼ同じ「ユクリイオロマナイ」という名前の川が(現在と同じ位置に)描かれています。さて、これはどう考えたものでしょう。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

 ユクリイオロマナイ沢 江鳶山から南に流れ斜里川右に入る小川の沢。意味不明であるが,「ユクルオマナイ」(鹿路にある川)であるという説もある。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.462 より引用)

確かに yuk-ru-oma-nay であれば「鹿・路・そこにある・川」なのですが、「ユクルオマナイ」あるいは「ユコロマナイ」と「ユクリイオロマナイ」の間には無視できないレベルの差があるように思えるのです。

yuk-ru-oro-oma-nay と考えれば「鹿・路・その中・そこにある・川」となりそうですが、これもやはり oro の必要性が感じられないというか、むしろ邪魔になりそうな気がします(oro が無いほうが意味が明瞭になるため)。

鹿路のある山の谷あいの川?

どうやら oro を捨てて考えるのが正解のような気がしました。oro ではなく iwor だったらどうかと考えてみたのですが、「地名アイヌ語小辞典」には次のように記されていました。

iwor, -i/-o イうォㇽ 神々の住む世界。具体的に云えば狩や漁の場或は生活資料(衣料・食料・燃料・建築資材など)採集場としての山奥または沖合。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.38 より引用)

これを見ると、なんだかかなり神聖な場所を意味するようにも思えるのですが、一方で「アイヌ語沙流方言辞典」を見てみると……

iwor イウォㇿ 1 【名】尾根と尾根の間の比較的平らな部分、山の谷間(たにあい)(熊狩りなどをする所、狩場)、山奥。
田村すず子アイヌ語沙流方言辞典」草風館 p.255 より引用)

あれ、「山の谷あい」だとすれば、ユクリイオロマナイ沢川のあたりもそんな地形のような……(まぁ大抵の川は「山の谷あい」ですが)。yuk-ru-iwor-oma-nay であれば「鹿・路・山の谷あい・そこにある・川」となりそうです。

鹿路のある川沿いの崖の川?

あるいは iwor ではなく e-wor で「その頭・水の中」とも考えられるかもしれません。これは東川町の「江卸」と同様の考え方で、yuk-ru-e-wor-oma-nay で「鹿・路・その頭・水の中・そこにある・川」ではないかな……と。

ユクリイオロマナイ沢川の河口の東側には標高 419 m の山があり、このことを形容して「頭を水につけているところ」と呼んだのではないか……という考え方です(鹿が頭を水につけているという訳では無いです)。

ホロカサル川

horka-{sar}
U ターンする・{斜里川}
(典拠あり、類型あり)

ユクリイオロマナイ沢川の 1 km ほど東(上流側)で斜里川に合流する東支流(北支流)です。「ホロカサル川」自体は途中で二手に分かれていて、西側の支流は「下ホロカサル川」と呼ばれています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「アタツクシヤ」の隣に「ヲロカサラ」と描かれています。ただ川が二手に分かれるところに描かれているので、どちらの川を「ヲロカサラ」と認識していたのかは不明です。

「午手控」には次のように記されていました。

 ヲロカサラ
 此水源子モロのチウルイ岳シャリ岳との間に行て、又チウルイの水はチウルイ岳より向ふえ落る也
松浦武四郎・著 秋葉実・翻刻・編「松浦武四郎選集 三」北海道出版企画センター p.176 より引用)

「チウルイ岳」の位置が不明ですが、「チウルイ」は現在の「忠類川」のことと考えて良さそうに思えます。となるとこの文章は「ホロカサル川」ではなく現在の「斜里川」のことを指しているように読めますが……

ただ、明治時代の地形図では現在と同じ位置に「ホロカサル」と描かれていました。川の水源は斜里岳と江鳶山の間にあり、水源から斜里川まで南に向かって流れた後、斜里川に合流してからは北に向かうため、まさに horka(U ターンする)川と言えそうですね。

斜里郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ホルカサル斜里川左支流) 「ホルカ・サル」(horka-Sar 後戻りする・斜里川)。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.257-258 より引用)

はい。horka-{sar} で「U ターンする・{斜里川}」と見て間違いないかと思われます。

「斜里」と「沙流」は、本来はどちらも同音の sar で、両者を区別するために「斜里」を pinne-sar(男の sar)、「沙流」を matne-sar(女の sar)と呼び分けていたと聞きます。「ホロカ斜里川」ではなく「ホルカサル」なのが、「斜里川」の本来のネーミングを残していて面白いですね。

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太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(僚船「きそ」編)

部屋に戻ってきました。今回の部屋は 6 甲板左舷側最前部にあるので、前方と左側の景色を眺めることができます。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症パンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

これは 12:30 頃だったと思いますが、陸地が見えていますね。いわき市の沖にやってきたようです。

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太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(昼食編)

太平洋フェリー「いしかり」は、太平洋を順調に北上中です(太平洋フェリーだからね)。おや、右前方に船影らしきものが見えますね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症パンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

内航船「神明丸」

右前方に見えた船影は、どうやら貨物船のようですね。太平洋フェリーは太平洋側の沿岸からそれほど離れない航路を通ることもあってか、他の船舶もちょくちょく見かける印象があります。というか他の船をあまり見かけない新日本海フェリーのほうが特殊なんでしょうけど……。

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太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(朝風呂編)

まだ朝の 8:30 過ぎですが、ちゃちゃっと朝風呂をキメることにしました。バスルームは引き戸の向こう側にあります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症パンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

タオルを探せ!

風呂に入る前にタオルの在り処を確認します。バスルームの向かいには洗面所があるのですが……

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太平洋フェリー「いしかり」スイート乗船記(お部屋編・その2)

部屋に戻ってきました。太平洋フェリー「いしかり」は順調に太平洋を北上中です。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2017 年 4 月~ 5 月時点のものです。新型コロナウイルス感染症パンデミックにより、各種サービスの実施状況や運用形態が現在と異なる可能性があります。

午前中は特にイベントは無いので(というか午後からが色々とありすぎるという話も)、改めてここまでご紹介できていなかった部屋の話を。本当は「バス・トイレ編」に続けておけば良かったのですが、構成がグダグダですいませんとしか……。

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