インディギルカ号遭難者記念碑
えーと……。気がつけば「ロシア的倒置法」ネタになっちゃってますが、もともとは、猿払村沖で座礁したソ連船「インディギルカ号」の遭難についての話題だったのでした。いや、あまりに「日ソ友好記念館」が凄すぎたもので……(笑)。
てなわけで、予想外の迫力(笑)でお腹いっぱいになったわたくし、「日ソ友好記念館」を後にして、道路の向い側(海側)にある「インディギルカ号遭難者慰霊碑」に向かいました。
微妙な時間(17:24)に撮影したものですが、夕陽がいい角度から差していたからか、いい感じに仕上がっていますね。いや、一昔前のカメラケータイで撮影してるんですけどね(笑)。
来歴?を日露(露日か?)両語で書いてあります。拡大しましょう。
昭和14年12月12日 ソ連船「インディギルカ号」とそれ
に乗合せていた人々に最後の時がやってきた
「イ」号は 秋の漁場を切上げて帰る漁夫及びその家族106
4名を乗せて カムチャッカからウラジオストークに向って航海
中 折からの暴風雪に押し流され 乗務員たちの必死の努力も空
しく 進路を失い 12月12日未明浜鬼志別沖1500メート
ルのトド岩に座礁転覆 700余名の犠牲者を出す海難史上稀有
の惨事となった
身をさくような厳寒の海上で激浪と斗い 肉身の名を叫び続け
ながら力尽きて死んで行った人々のことと その救助に全力を注
いだ先人たちの美しい心情は 人類のある限り忘れてはならない
この碑は 北海道はもとより国内の数多くの人々 並びにソ連
側の海員 漁夫の善意に基く浄財によって 「イ」号と運命を共
にした人々の冥福を祈るとともに 国際親善ならびに海難防止の
願いをこめて建立されたものであり 台座の石はソビエト社会主
義共和国連邦から寄贈された花崗岩である
「肉身」は「肉親」の誤りと思われますが、そのまま転記しています。写真から起こしていますので、誤読があるかもしれません。どうぞご指摘くださいませ。
漠然とした違和感のわけ
インディギルカ号の遭難者には、女性や子供も多かったと言います。確かに、「漁夫及びその家族」とあるので、矛盾はありません。ただ、「秋の漁場を切上げて帰る」「漁夫及びその家族」「1064名」というのに、なんか違和感を感じたのも事実です。もう少し具体的に書かないと読者の方にはわからないですよね。つまり、「秋の漁場」なのであれば、漁場を離脱するのは毎年恒例の行事であると考えられます。「毎年恒例の行事」だとすると、それは「漁」の一環であると考えることもできます。だとすると、カムチャツカでの「漁」は、日本で言う「出稼ぎ」に相当するのではないかと。「出稼ぎ」に家族や子供を帯同するというのが、日本的な感覚ではあり得ないよな、と。
もちろん、相手は「社会主義国家」の総本山ですし、何せ世界一の領土を誇る国でしたから、季節毎に「民族大移動」を行っていても不思議は無いのですが……何とも不経済なのも事実です。
インディギルカ号の真実
前にも書きましたとおり、インディギルカ号の船長は救助され、生還しました。ところが、船長が退船した後にも、多数の人が救助されずに船に残されたと言います。しかも、船長は「船にはもう誰も残っていない」と、虚偽の証言までしていたのだとか。何から何まで不自然過ぎます。この、恐ろしく不自然な座礁事故の真実ですが、ソ連の崩壊後、新たな説が唱えられるようになりました。曰く、「インディギルカ号は政治犯の輸送船だった」という説です。つまり、カムチャツカからシベリアのラーゲリ(強制収容所)に人々を送り込む途中で座礁した、という説です。これだと、船長が「乗客」の救助を行わずにさっさと逃げ出したのも理解できます。
ただ、「女性・子供を問わずラーゲリ送りにしている」などと言ったことを国際的に喧伝するわけにもいきませんからね。微妙に「それっぽい話」をでっちあげて、「公式見解」としていたようです。「レ1ニンの平和路線」もびっくりですね。
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