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「日本奥地紀行」を読む (57) 小佐越~藤原 (1878/6/24)

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。イザベラは現在の日光市小佐越(旧・塩谷郡藤原町)にやってきました。

私の馬子

イザベラは日光から馬を乗り継ぎながら小佐越までやってきましたが、馬をレンタルする仕組みについて次のように記していました。

この地方では雌馬だけが使用されている。これはきわめておとなしい馬である。もし荷物の重量が駄馬一頭分と勘定されてしまうと、たとえそれが弱い馬が運べないほど重くても、運送会社はその荷物を二頭か、あるいは三頭にも分けてくれるが、一頭分だけ払えばよい。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.142 より引用)

これはなかなか「顧客第一」な料金体系だったのですね。どのようにして「駄馬一頭分」とカウントするのかが少々不明瞭にも思えますが、実際の馬匹のパフォーマンスではなく荷物の量でカウントする料金体系は、かなり明朗なものに思えます。実際にイザベラの場合も、次のようにカウントされていたのだとか。

駄馬は四頭であったが、私は一里七銭の割合で二頭分だけ支払えばよかった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.142 より引用)

イザベラがレンタルした駄馬には、ちゃんとお目付け役の「馬子」も帯同していました。この時の馬子は女性だったのですが、

私の馬子はまったく人の良さそうな顔をしていたが、労働で強ばった顔がお歯黒のために気味悪く見えた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.142 より引用)

これまた、イザベラ姐さんの舌鋒が炸裂と言った感じですね。お歯黒という謎な習慣も、まだこの時代には現役だったこともわかります。

もっとも、「顔が気味悪い」などと一刀両断にしながらも、イザベラ姐さんも褒めるべきところはちゃんと褒めていました。

このように見苦しい服装ながらしっかりと頑健な足どりをする方が、きついスカートとハイヒールのために文明社会の婦人たちが痛そうに足をひきずって歩くよりも、私は好きである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.143 より引用)

……えーと、褒めてるんですよね、一応は。

鬼怒川の美しさ

イザベラ一行は、小佐越を発って更に北に向かいます。小百から小佐越までの道は「深い森の山あいの不規則な草深い谷間」を通っていましたが、小佐越から先は鬼怒川沿いの道を往くことになります。

かなりの高所に橋がかけてあり、こわいほど急な曲線を描いていた。そこからは高い山々の景色がすばらしい。その中には二荒山(フタラヤマ)があり、大昔の神々の伝説が残っている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.143 より引用)

ん、「二荒山」ってどこだろう……と思ったのですが、これは「男体山」のことを指していたみたいですね。「かなりの高所に橋がかけてあり」とありますが、これは鬼怒川に架かっている橋のことだったのでしょうか。

というのも、鬼怒川の西側は「楯岩」と名付けられた絶壁状のところがあるのですが、イザベラは次のように「反対側」のこととして記しています。ここから考えて、やはりどこかのタイミングで対岸(東側)に渡っていたと思われます。

流れが烈しく反対側に突き当たって進むあたりは、岸も絶壁となり、山頂まで針葉樹が生い茂っている。こちら側はそれほど崖も急でなく、山道が通り、道は曲がって下り坂となり、緑の小山に入る。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.144 より引用)

これは、現在の鬼怒川温泉のあたりだと思うのですが、鬼怒川沿いの彩り豊かな植生についても、イザベラは多くを語っていました。たとえばこんな感じです。

花を咲かせている樹木や潅木も多くは私にとって目新しいものであった。赤いつつじ、ばいかうつぎ、青色《まったく空のように青い色》のあじさい、黄色の木苺、羊歯、仙人草、白や黄色の百合、青いあやめの茂みや、その他に五十種類もの樹木や灌木に藤がからまり、花綱で飾っていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.144 より引用)

また、イザベラは「草木が繁茂している有様は、実に熱帯的であった」とも記していました。イギリスの北部あたりと比べると、確かに熱帯的に感じられても不思議はありませんね。

仏教の墓地

続いて「仏教の墓地」というセンテンスがあったのですが、普及版ではバッサリとカットされていました。わざわざカットするほどでも無い内容にも思えますが、あるいは亡者を憚ってのことだったのでしょうか。

私たちは幾つかの混み合った埋葬地を通り過ぎました。本当のところ、その谷に沿って死者は生きている者より数が多いように見えました。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺中央公論事業出版 p.57 より引用)

イザベラは、墓石の多さとその密接度に強い印象を受けたようです。

それらは非常にきちんと手入れされており、墓石は最も貧しい者たちでも何とか調達して、互いに 3 フィート間隔に列になって密接して並んでいます。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.57 より引用)

3 フィートは約 91.4 cm ですから、確かにそれほど広いとは言えませんね。

しかし、仏教徒は横たわった姿で埋葬されるのではなく、また比較的貧しい階級では、竹のたがを回した松材の棺桶の中に、頭を垂れて身体をうずくまらせた姿勢で、無理やり押し込められて葬られるのです。
(高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」中央公論事業出版 p.57 より引用)

つい読み落としてしまいそうになったのですが、そうか、当時は火葬の習慣が無かったということになるのでしょうか。「無理やり押し込められて」というところに野蛮な印象を感じてしまいますが、イザベラによると「葬式はどのような場合でも敬意をもって」行われたのだ、とのこと。

なぜカットされたのかを改めて考えてみたのですが、やはりどことなく仏教徒を「異質なもの」として描写している部分があった(と考えた)からでしょうか。

藤原

イザベラは鬼怒川沿いに北上を続け、ついに「藤原」にたどり着きます。

峡谷はますます美しくなってきた。真っ直ぐに伸びている杉の暗い森を登ってゆくと、すばらしい場所にあるこの村に着いた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.144 より引用)

そして、ここまでの道のりを次の一文で振り返ります。

十一時間を旅して、ようやく一八マイルやってきたのだ!
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145 より引用)
 

イザベラがどのようにしてマイレージを把握していたのか、またその精度がどの程度だったのかは良くわかりませんが、仮に「18 マイル」が正しいとすると、ちょうど日光の金谷邸から新藤原駅あたりまでの距離に相当します。

イザベラはこの地で一泊して、翌日付で次のように記しています。

五十里にて 六月二十五日──藤原には四十六軒の農家と一軒の宿屋がある。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145 より引用)

農家と宿屋については、次のようなものだったとしています。

いずれもうす暗く、湿っぽく、汚くて、すきま風の入る家で、住宅と納屋と馬小屋を一緒にしたものである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145 より引用)

「すきま風の入る家」というのは日本家屋の特徴だ、とも言えそうな気もしますが、「うす暗く湿っぽい」というのは少々残念な感じもしますね。

イザベラは、部屋に入ったはいいものの、すぐに部屋を追い出されてしまいます。

私は部屋に落ちつき書きものを始めたが、まもなく無数の蚤が出てきたので、軒下の縁側に逃げ出した。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145 より引用)

シラミ……じゃなくてノミが大量に湧いてきた、とあります。イザベラは手紙を以って縁側に逃げ出したものの、その手紙の上にノミが飛び乗ってきたのだとか。

更には、食事面でも大変な目に遭います。

御飯は黴臭くて、米をちょっと洗っただけのものであった。卵は日数をよほど経たしろものであり、お茶も黴臭かった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145 より引用)

うーむ。「お茶も黴臭かった」というのは、もしかしたらそういう味付けのものだったりしないのかな、と思わないでも無いですが……。卵は生食だったのでしょうか。だとしたら確かに鮮度の良し悪しもすぐに分かりそうなものですね。「うす暗く湿っぽい」とあるので、確かに食物がカビにやられても不思議はない場所のようにも思えてきます。

イザベラの「奥地紀行」は、ついに未踏の地に入った印象がありますが、実はそうでも無かったことが次に語られます。

人々は晩にも仕事があり、村にはもの静かな単調さが漂っていた。私はその様子を縁側からじっと観察し、私にこの旅行を思いたつにいたらせた《『アジア協会誌』の一論文の》一節を読んでみた。「鬼怒川の流れに沿って進むコースは、まことに絵のように美しいが、また困難な道である。この道は外国人にとって、また日本人にとってもほとんど知られていないように思われる」。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.145-6 より引用)

これを見る限り、どうやら既に鬼怒川沿いを旅した先人がいたことを思わせます。「日本人にとってもほとんど知られていない」としながらも、少なくともこうやって公刊されている以上、「未踏の地」とは言えませんよね。

イザベラに対するノミの大群(あ、北海道にもそんな名前の町があったような)の大歓迎は、夜になっても止むこと無く続き、おかげでイザベラの夜はとても長いものになってしまったようです。

私は携帯用ベッドに虫とり粉をまいたが、毛布を床の上に一分間も置くと、蚤がたかってきて眠ることができなかった。その夜はたいそう長かった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.146 より引用)

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