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「日本奥地紀行」を読む (59) 藤原~川治温泉 (1878/6/25)

引き続き、1878/6/24 付けの「第十一信」(本来は「第十四信」となる)を見ていきます。

馬の草履

イザベラ一行は、藤原(現在の日光市藤原)を出発して、次の目的地・高原(現在の川治温泉付近)を目指します。新藤原から川治温泉までは、現在は野岩鉄道で 2 駅・10 分の距離ですが……。

昼ごろには、雨も小降りとなり、私は徒歩で藤原を出発した。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.149 より引用)

イザベラは「日本奥地紀行」の表紙にも描かれているような笠を身につけて、最初は徒歩で藤原を出発しました。

それから軽い笠《この地方では防水になっている》を肩にかぶさるほど深くかぶり、二頭の馬に荷物を積んで、踝(くるぶし)までぬかる泥道をとぼとぼと歩いた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.149-150 より引用)

謎の峠道

藤原から高原(川治温泉)までは川沿いに道が通っていたものと考えられますが、イザベラは「2100 ft の峠を越えた」と記しています。

とうとう私は駄馬に乗り、高田山の突出部を越えた。峠は二一○○フィートの高さで、よく工夫されたジグザグ道が通っていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.150 より引用)

「高田山」がどの山を指すのかが今ひとつ釈然としませんが、あるいは藤原の北に位置する 951.4 メートルの山のことでしょうか。それであれば、西北西に 737 メートルの山があって、その間に 700 メートル強の鞍部があります。現在このあたりは川沿いの断崖に沿って道があるほか、国道は「三ツ岩トンネル」でショートカットしていますが、イザベラが歩いた時代には山側の峠を越えるしかなかったのかもしれません。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

仮に、イザベラが想定通りのルートを辿ったとしたならば、約 200 メートルを一気に上り詰めたことになります。馬に乗って進むことができるなら、やはり馬に乗っておきたいところですよね。

そして「馬の草履」の話

ただ、峠を越えた先の下り坂で、イザベラは馬から投げ出されてしまいます。

下り道は急な坂で、すべりやすかった。馬の足は弱かったので、ひどく蹟くと、とうとう倒れてしまった。私は馬の頭から投げ出されたので、やさしい女の馬子はたいそうあわてた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.150 より引用)

イザベラは、その原因を馬に履かせている「藁沓」に見出したようです。

馬はいつも藁沓をはくから、足は柔らかく、ふわふわとなっている。だから、藁沓なしでは歩けなくなっている。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.150 より引用)

人間も靴を履かないと砂利道を歩けないのと同様に、馬にも同様の処置が必要です。そのため、藁で編んだ靴を馬に履かせるのですが……

藁沓をはいても、すりきれてくると馬は蹟き始める。馬子は心配でたまらなくなり、やがて馬を停止させることになる。そして鞍から下げてある四個の藁沓を水に浸し、地面からたっぶり一インチも馬の足をあげて、なだめたりすかしたりしながら藁沓をはかせる。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.150 より引用)

所詮は藁の靴、それほど長持ちするものではなかったようです。特に険しい山道では平野部の倍の速度でダメになった、とも記しています。イザベラは、この「藁沓」について

これほど一時の間にあわせで、しかも不体裁なものは考案できまい。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.150-151 より引用)

と一刀両断に切り捨てていました。ただ面白いのは、この藁沓はいかにも現代風の「使い捨て」なのですが、

馬の通る道は、捨てた藁沓が散乱し、子どもたちは、これらを拾い集め、積み重ねて腐らせ堆肥とする。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

ちゃんと再利用のプロセスが確立していることです。このあたりは流石だなぁと思わせますね。

ばかばかしい間違い

イザベラ一行は、高原(現在の川治温泉)で遅い昼食を取ったようです。

高原という次の宿場で、荷物を運ぶために馬を一頭やとった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

そこでイザベラは、思わぬ光景に出くわします。

私が到着すると、きれいな顔をした娘たちの群れはすべて逃げ出したが、彼らの年長者に伊藤から話をして、まもなく呼びもどして来た。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

集落の娘達が逃げ出していったのは、イザベラが「ばかばかしい間違い」とした勘違いからでした。

私は、婦人たちが畑で働くとき日光や雨を避けるためにかぶる帽子をつけているのだが、眉毛も剃らず歯を黒く染めてもいないので、この娘たちは私を外国の男だと思ったのである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

現代の日本人は、栄養状況も相当良くなったとは言え、それでも欧米人と比べるとどうしても小柄に見られがちです。イザベラが旅した当時の体格の差はそれどころではなかったでしょうし、少なくとも一般的な日本人よりは目鼻立ちもハッキリしていたでしょうから、それだけで「外国の男」だと見られてしまったのかもしれませんね。

そして、「外国の男」がやってくるという事実だけでパニックに陥ってしまったのは、過去に何かしらの具体的な「被害」があったと言うよりは、どこかで見てきたような話が独り歩きしただけの可能性もあったんじゃないかな、と思ったりもします。

誤解は無事解くことができたので、イザベラはようやく昼食にありつけることになりました。

ここでは食べるものは御飯と卵だけである。そこで私は、十八対の黒い眼がじっと私を見つめているところで、御飯と卵を食べた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

ただ、「誤解は解けた」と言うのもあくまで表面的なものだったのかもしれません。「十八対の黒い眼」がどのような意図を持ってイザベラを眺めていたのかは、好奇心からだったかもしれませんし、あるいはある種の疑いの目で見ていたのかもしれません。

ここは温泉で、傷や腫れ物に苦しむ人々が大勢湯治に来るところである。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.151 より引用)

現在も「川治温泉」として名のしれた温泉地ですが、当時から湯治場として広く知られていたことがわかります。

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