やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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知来(ちらい)
常呂郡佐呂間町の中心地「佐呂間」には、国鉄湧網線の「佐呂間駅」がありました。この「佐呂間駅」の東隣の駅が「知来駅」でした(但し、両駅の間に「堺橋」と「興生沢」の仮乗降場がありました)。
ということで、久しぶりに「北海道駅名の起源」を見てみましょうか。
知 来(ちらい)
所在地 (北見国) 常呂郡佐呂間町
開 駅 昭和 28 年 10 月 22 日 (客)
起 源 アイヌ語の「チライ・オチ」(イトウのいる所) の上部をとったものである。
はい。近くを流れる「知来川」に由来する地名・駅名ということになりますね。戊午日誌「西部登宇武都誌」には次のように記されていました。
また少し行
チライヲツ
右の方小川。此川チライ多く、岬(卵)をなすが故に此名有と。チライはいとうの事也、ヲツとは居る儀也。
ということで、chiray-ot で「イトウ・群在する」だったと考えられます。地名としては不完全な形で、おそらく元々は後ろに -i(ところ)か -nay(川)あたりがついていて、それが省略されてしまったと思われます。
ちなみに、道央の月形町には「知来乙」という地名があります。札沼線に同名の駅がありますね。
プシュケショマナイ川
佐呂間町佐呂間から佐呂間別川を少しさかのぼると「桜橋」という橋があります。ボウリング場があるわけでは無いのですがそれはどうでいいとして(本当にどうでもいい)、プシュケショマナイ川は「桜橋」の 300 m ほど上流側で南から佐呂間別川に注いでいます。アイヌ語由来の地名・川名の多くが失われている佐呂間町においては貴重なものですね。
永田地名解には次のように記されていました。
Push kesh-oma nai プㇱュ ケㇱョマ ナイ 潰裂ノ端ニアル川
ふむふむ。最初は pus-kes-oma-nay かな……と思ったのですが、それだと文法的にちょっと変な感じもするので、pus-i-kes-oma-nay あたりになるのでしょうか。これだと「潰裂する・もの・末端・そこに入る・川」と読めそうです。
もっとも、この場合の pus-i はお隣の「武士川」のことと考えるのが自然です。「武士」の地名解も諸説あるので、「プシュケショマナイ」の由来としては「{武士}・端・そこに入る・川」とするのが、実は一番適切なのかもしれません。
イナヤンオマップ川
佐呂間別川の西支流で、北見市との境界を流れています。以前に「ワカケレベツ沢川」の回でも少し記しましたが、独立した項目として取り上げておきましょう。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「イチヤンヤヲマフ」という名前の川が記されています。その下流側に「ヘンカワツカヘケレ」が記されていて、「ワカケレベツ沢川」との混同が疑われるのですが、どうやらこのあたりは「聞き書き」による作図だったようで、他にも実際の地名との異同が多いようです。要するに信頼性の面でちょっと劣る、ということのようです。
やはり「イナヤン」は「イチャン」の誤記だったようで、戊午日誌「西部登宇武都誌」には次のように記されていました。
またしばし過
イチヤンヤヲマフ
此処浅瀬にして鮭・鱒・鯇が卵を置処なる由、よつて号。此名義はイチヤンの有る川と云儀のよしなり。
うーむ。「イチャンオマㇷ゚」なら ichan-oma-p と理解できるのですが、「ヤ」はどう考えたらいいのでしょう。永田地名解も見ておきましょうか。
Ichan ya omap イチャン ヤ オマㇷ゚ 鱒ノ産卵場ノ丘ニ在ル澤 「イチャン」ハ本川ニアリ
うーむ。やはり「ヤ」は素直に ya と解釈するのが正解なんでしょうか。永田方正は ya を「丘」と考えたのでなんだか良くわからない解になっていますが、ya を「岸」と考えれば戊午日誌の「浅瀬」という解釈と繋がります。
ichan-ya-oma-p で「産卵場・岸(浅瀬)・そこにある・もの」と読み解けばいいのかな、と思います。
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