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宗谷本線各駅停車 (14) 「問寒別」

名寄行き 4326D は、物置で有名な「糠南」を出発して、次の「問寒別」に向かいます。

雄信内おのっぷないと糠南の間は 5.7 km ありましたが、糠南と次の問寒別の間は 2.2 km しかありません。この駅間は郊外部の東海道本線の駅間よりも短いと思うのですが、国鉄時代は頑張っていたのだなぁ……と考えるよりは、よほど道路事情が厳しかったのだなぁ、と捉えるほうが正解のような気もします。

ちなみに「糠南駅」も廃止の打診が何度かあったようですが、「いや物置なんでレアなんで」という理由で廃止を免れている……という認識です。

問寒別駅(W66)

糠南を出発して 2 分ほどで、問寒別駅のすぐ近くまでやってきました。ここは「木工場御料林道」という名前の踏切なのですが……

問寒別駅に停車しました。ホームと駅舎は左側にあるので、右側は空き地しか見えません。現在は 1 面 1 線の棒線駅ですが、かつては 2 面 2 線の交換可能な構造だったようです。

線路の右側(南西側)はご覧のように空き地になっていて、その奥は防風林が広がっているのですが、林となっているあたりは元々はストックヤード(輸送貨物の置き場)だったのだそうです。

三角線の跡!

問寒別駅からは殖民軌道が出ていたと聞いたのですが、大正時代に測図された陸軍図はおそらく古すぎて殖民軌道が記入されていませんでした。そのため米軍が撮影した航空写真を眺めていたのですが……あっ

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

駅の糠南側に、三角線の跡が見えますね! これは米軍撮影のものではなく、1974 年頃に撮影された写真ですが、三角線の跡と見て間違いないでしょう。

問寒別駅は、天塩線が 1923 年に誉平駅(現在の天塩中川駅)から延伸した際に、終着駅として開業しました。二年後の 1925 年に(天塩線改め)天塩南線は幌延まで延伸しているので、終着駅だったのは僅か 1 年 9 ヶ月ほどの間でした。

大正時代なので、すべての列車は蒸気機関車が牽引していました。蒸気機関車は片運転台のため、進行方向を逆転させるには機関車の向きそのものを反転させる必要があるのですが、そのためには「転車台」(ターンテーブル)を設置するのが一般的です。

ただ、問寒別駅が終着駅となったのはあくまで一時的なもので、いずれ単なる中間駅になることが織り込み済みでした。そのため、高コストな転車台を設置する代わりに、集落の反対側に「三角線」を設けて、そこで機関車の進行方向を変えていたのだと思われます(同様の例は根室線の「西和田駅」にもありました)。

実働 2 年弱

三角線」が実際に活用されたのは、おそらく 1923 年から 1925 年にかけての 2 年弱だったと思われますが、半世紀ほど経過した時点でも辛うじて跡が確認できる状態だった、ということになりますね。

2 枚目に出てきた「木工場御料林道踏切」のあたりが三角線の分岐点(糠南側)だったと思われるのですが、電柱の手前あたりを線路が通っていたと思われるのです。

そして 3 枚目の林の中にも三角点の分岐点(歌内側)があった筈なのですが……これは流石にわからないですね(汗)。

駅舎はリニューアル済み

左側のボックスにお客さんがいないことを良いことに、駅名標を撮影してみました。直射日光に曝されたからなのか、褪色が凄まじいですね……。

駅舎も見えてきました。なかなかオシャレな外観ですが……

問寒別駅は、勇知駅と同様に大幅に補修されたダルマ駅舎、でした。もともとは他の駅と似たような塗り分けのものでしたが、補修後のこの色は……なかなか良いですね。

駅の正面には道道 583 号「上問寒問寒別停車場線」がまっすぐ伸びています。この道路が開通したことにより殖民軌道(後の町営軌道)が廃止された、ということになりますね。

川じゃないのにでけぇ!

4326D は問寒別を出発して、次の「歌内」に向かいます。右側にまたしても川が見えてきた……と思ったのですが、これは川ではなく河跡湖でした。雪解け水が集まる時期なので特に水嵩があるのかもしれませんが、どう見ても川ですよね……。

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