やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
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ポロモイ
知床半島の北部、ウイーヌプリの北西に「ポロモイ」と呼ばれる湾状の海岸があります。
「東西蝦夷山川地理取調図」には「ホロムイ」と描かれていました。また戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。
扨此下崖の下しばし過て
ホロムイ
此処大湾に成イマエヘウシとヒヤルマイと相対す。其巾凡廿丁も有るべし。皆峨々たる岩壁中々筆の及ぶ処にあらず。
「イマエヘウシ」は「アウンモイ」の北の岩岬のことで、「ヒヤルマイ」は「ピヤラオマイ」のことと見られるため、「ホロムイ」は現在の「ホロモイ」のことと考えて間違い無さそうです。
また「午手控」には次のように記されていました。
しばしにて
ホロムイ
此処大湾也。此処キャルマイとイマイヘウシの間の澗也。小石浜凡廿丁計、上は高山也。上に
ホロムイノホリ
と云高山有。椴并に雑木原なり。中程に少し
無名瀧
一条有。
この「無名瀧」が現在の「ポロモイ川」である可能性がありそうです。ただ、現在の「ポロモイ」と「ポロモイ岳」は少し離れている(「ポロモイ岳」は「オキッチウシ川」の源流部にある)ため、要注意かもしれません。
本題に戻りますが、永田地名解には次のように記されていました。
Poro moi ポロ モイ 大灣
また「斜里郡内アイヌ語地名解」にも次のように記されていました。
ポロ・モイ (poro-moy) 「大きな・湾」。
poro-moy で「大きな・湾」ではないかとのこと。確かにそう考えるしか無さそうな感じでしょうか。
ただ、この「ポロモイ」の形がすごく「箕」に似ているんですよね。「箕」は muy なので poro-muy で「大きな・箕」なんじゃないかと考えたくなります。松浦武四郎も「ポロムイ」と記録していますし、また「此処大湾也」と記したものの「大湾という意味」とは記していませんし……。
羅臼町の「春刈古丹」の南に「幌萌町」という所があるのですが、それと同型の地名なんじゃないかなぁ……と。
ピヤラオマイ
「ポロモイ」の南西に、現在「アウンモイ」と呼ばれる湾状の地形がありますが、ここは戊午日誌「西部志礼登古誌」によると「ホンムイ」という別名?もあったようです。
「ピヤラオマイ」は「ポロモイ」の北にあり、「アウンモイ」(=ホンムイ)を更に小さくしたような湾状の地形です。戊午日誌「西部志礼登古誌」には次のように記されていました。
また此処の岬を廻りて少しの湾有。其処をこして
キヤルマイ
本名はヒヤリマイなるよし。少しの岬に成て其岬に大穴有。是行貫 になる也。其訳は昔弁慶蝮蛇を踏潰す時、(弁慶の妹が)此穴の中より見て居られしと云り。
弁慶の妹……ですか。いきなりの新キャラの登場に動揺を隠せませんが……。
「斜里郡内アイヌ語地名解」には次のように記されていました。
ピヤラモイ(piyar-oma-i) ピヤㇽ(窓),オマ(ある),イ(所)。立岩に穴があいていて、和人はそれを「窓岩」と呼んだ。
「窓」を意味する puyar という語がありますが、このあたりでは piyar と発音されていたということでしょうか(「地名アイヌ語小辞典」に「piyar, -i 【シャリ】窓」との記載あり)。puyar-oma-i で「窓・ある・ところ」と考えて良いかと思います。
それにしても、「弁慶がマムシ・ヘビを踏み潰す時」という話はどこから出てきたのでしょう……(汗)。流石にゼロからの創作ということではなく、「サマイクル」あたりの話からの借用だと思いますが……。
エタシペ岩
知床岬の北の沖合にある岩の名前で、地理院地図に名称が記載されています。……他には見事なまでに情報が手元に無いのですが、これまでの例から考えても「エタシペ」は etaspe で「トド」を意味すると考えて良いかと思われます。
岬の先の岩礁で、良くトドが寛いでいた……と言ったところなのでしょうね。
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