Bojan International

旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

北海道のアイヌ語地名 (1090) 「幣舞・茂尻矢・武佐」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幣舞(ぬさまい)

nusa-oma-i
祭壇・そこにある・ところ
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

釧路市は滝川からやってきた国道 38 号と浦河からやってきた国道 336 号の終点で、根室に向かう国道 44 号の起点でもありますが、いずれも幣舞橋の南にある「幣舞ロータリー」が起終点となっています(全ての国道がわざわざ「行き止まり」である「幣舞ロータリー」に向かっているように見えます)。

釧路の市街地は釧路川の南北に広がっていますが、川の南側が古くからの市街地で、川の北側は鉄道の開通とともに広がっていった感じでしょうか。幣舞橋は釧路の南北を結ぶ最も重要な橋だったようで、それは今も変わっていないように思われます。

「祭壇のあるところ」

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヌサマイ」と描かれていました。また戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」には次のように記されていました。

またしばしにて
     ヌサマイ
是わたし場の上の岬の鼻にヱナヲの多く建て有る処を云よし。ヌサは木幣の事、マイはヲマイの儀にて在ると云事也。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)

nusa-oma-i で「祭壇・そこにある・ところ」と見て良さそうですね。一本の原木……じゃなくて枝から「イナウ」を削り出して、そのイナウを納める場所があった……ということなのでしょう。

幣帛拖ヌサマヰ

豊島三右衛門は「ヌサマイ」に次のような字を当てていました。

「幣帛拖」で「ヌサマヰ」とのこと。なんと今回も欠字は無く、しかも JIS 第 1 水準、第 2 水準、第 3 水準が順に並ぶという見事なコンプリートぶりです。「拖」の字は「浦見」の元となった「裡黎拖ウラリマイ」と同じで、「幣」の字は現在の「幣舞」と同じです(!)。読みこそ若干異なるとは言え、豊島三右衛門の当てた珍妙な文字がそのまま残っているというのは感動ですよね。

豊島三右衛門地名解には次のように記されていました。

マヰ  但此所後□山ノ上ニ古民ノ「ヌサ」アリ其前ヲ名付ルナリ
但「ヌサ」ト云ハ幣帛ト云フ同言也「マヰ」ト云フハ山ノ上ニ□□アル前ト云フ言葉ナリ
(佐々木米太郎・編著「釧路郷土史考」東天社 p.19 より引用)

戊午日誌の解と同じように見えますが、よく見ると松浦武四郎は「渡し場の岬にイナウを立てた」としたのに対し、豊島三右衛門は「山の上に幣場がある」としています。ちょっと気になるところですが、本題からは外れてしまうので、とりあえず見なかったことに……()。

茂尻矢(もしりや)

mosir-ya
島・岸
(記録あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

春採湖のまわりには多くの学校があり「文教地区」の趣がありますが、「北海道釧路北陽高校」の北西の釧路川を見渡せる高台に「茂尻矢」という名前の二等三角点(標高 32.3 m)があります。「『北海道釧路北陽高校』の北西」と言われてもピンと来ない方も多いと思いますが、「仏舎利塔の北」と言えば「ああ!」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。

東西蝦夷山川地理取調図」(1859) や「北海測量舎図」にはそれらしい地名が見当たりませんが、「改正北海道全図」(1887) には「モシリヤ」と描かれていました。黒い丸がついているのですが、これは「支村字地」を意味するとのこと。

島があった!?

更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。

 茂尻矢(もしりや)
 現在は御供山(砦址)があるので城山町と呼ばれている付近の旧名。釧路川の中島のあるところ。モシリ・ヤは島の(のある川)岸の意。

えっ、釧路川に中島が……? 陸軍図を見ると、根室本線の鉄橋の北(阿寒太:阿寒川の河口)に島のようなものが見えますが、この島のことなんでしょうか……?

ただ、地理院地図をよく見ると「御供山」の近くに「モシリヤ砦跡」という史跡が表示されていて、これは「旭橋」と「久寿里橋」の間なので、「阿寒太」よりも明らかに下流側です。

戊午日誌 (1859-1863) 「東部久須利誌」にも次のように記されていました。

     モ シ リ
一ツの島此処に有りて蘆荻生て繁茂す。
松浦武四郎・著 秋葉実・解読「戊午東西蝦夷山川地理取調日誌 上」北海道出版企画センター p.521 より引用)

「東部久須利誌」には「アカンブト」と「ヌサマイ」の間に「メンカクシ(チヤシコツ)」「イベシ子ツフ」「サルウシナイ(サルウシ)」「モシリ*」「ヘンケウラコツ*」が記録されていました(カッコ内は「東西蝦夷──」での表記、* は「東西蝦夷──」に描かれていない地名)。

「アカンブト」と「モシリ」の間に「チヤシコツ」があったように見えるので、やはり「アカンブト」と「ヌサマイ」の間で釧路川の流れが二手に別れていて、その中に島があった……ということみたいです。今更ですが「東西蝦夷山川地理取調図」にも巨大な中島が描かれていましたね。

肝心の地名解ですが、やはり mosir-ya で「島・岸」と見るべきなんでしょう。釧路川の中島(あるいは釧路川の北側を流れていた別流かも)が姿を消し、「茂尻矢」という地名も姿を消したものの、史跡と三角点の名前にひっそりと残っていた……ということになりそうですね。

武佐(むさ)

(? = 記録はあるが疑問点あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

春採湖の北東に広がる住宅街の地名で、JR 根室本線(花咲線)に同名の駅もあります。住宅地を離れた東側には、別保川の支流の「武佐川」も流れています。

同名の駅もあるので、まずは「北海道駅名の起源」から……と思ったのですが、あれっ? あ、武佐駅って JR 北海道になってから設置された駅だったんですね(汗)

「入江のほとり」という珍解釈

北海測量舎図には「ペッポ」の支流として「モサ川」と「フレモサ川」が描かれています。「フレモサ川」が流れていたあたりは完全に住宅地に取り込まれていて、現在は「武佐交番」の東に僅かに谷が残るだけのようにも見えます。

陸軍図では「釧路臨港鉄道」の東に「ムサ」と描かれていました。現在の武佐の住宅街は高台(標高 30~40 m ほど)にありますが、武佐川が流れるあたりの標高は殆どが 5 m 以下のようで、陸軍図では湿地として描かれていました。

現在の地形図では、武佐の南東、桜ヶ岡や白樺台の北側は大きく人の手が入っているため実感が湧きませんが、陸軍図では白樺台の北あたりまで湿地が広がっていました。この湿地はかなり奥深くまで伸びたものなので、「モサ」は moy-sam で「入江・ほとり」だったりしないか……と考えてみました。

「いや、普通 moy は海じゃね?」と全方位からツッコミをいただきそうな気もするのですが、内陸部にも moy があったような、無かったような……(どっちだ)。

イラクサ」?

山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。

語義は忘れられているが,モサ(mosa いらくさ)だったのではなかろうか。いらくさは多くの土地ではモセ,モシであるがモサとも呼ばれていたようである。根室中標津にも同名の武佐がある。
山田秀三「北海道の地名」草風館 p.268 より引用)

釧路の「武佐」について言及した文献は何故か妙に少なく、山田さんのこの解以外めぼしいものが見当たらないように思えます(あくまで手持ちの資料に限った場合ですが)。mose で「イラクサ」ではないか、ということですね?

個人的には moy-sam を推したいところですが、流石に全方位からのエクストリームツッコミが怖いので、今日のところは大人しく山田さんの解をファイナルアンサーにしておきます……。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International