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春の道央・道北の旅 2010 (20) 「チノミシリ ~我ら・祈る・山~」

大空と大地の中で

そうそう、藤谷さんとはこんな会話を交わしていたのでした(ついさっき、地図を見ていて思い出しました)。

このあたり(の家)は、(二風谷)ダムができて引っ越して来られたんですか?
「ダムができる前からここに住んでましたよ。水没したのは二~三軒じゃなかったかしら」
へぇー、そうだったんですね!
アイヌは、そんな(水没するような)ところに家を建てないから。二風谷が沈むようなことがあったら、それは北海道の大半が沈むことになった日ね

柔和な笑顔はそのままで、ごく普通の調子でそう教えてくださいました。ただ、「この大地のことは、私たちは何でも知ってるのよ」という確信のようなものが感じられた、そんな気がします。

二風谷ダム建設差し止め訴訟

ここでちょいと二風谷ダムの話題に戻りましょう。

アイヌ民族の闘い
しかし、ダムが建設される二風谷地区は、アイヌ民族にとって「聖地」とされてきた。プサンと呼ばれるサケ捕獲のための舟下ろし儀式を始めとして当地はアイヌ文化が伝承される重要な土地であった。このため計画発表と同時に地元のみならず道内のアイヌから強い反対運動が起こった。水没戸数は9戸と少なかったが水没農地が水没面積の半分を占め、うち競走馬の牧場が二箇所あったことも補償交渉を長期化させた。水没予定地の関係者に対する補償交渉は9年を費やし、1984年(昭和59年)には補償交渉が妥結。平取町もダム建設に同意し翌1985年(昭和60年)には水源地域対策特別措置法の対象ダムに指定されて生活再建への国庫補助などが行われた。
しかしアイヌ関係者のうち萱野茂貝澤正の両名はアイヌ文化を守るため頑強にダム建設に反対。所有する土地に対する補償交渉に一切応じず補償金の受け取りも拒否した。このため北海道開発局は両名への説得を断念し土地収用法に基づき1987年(昭和62年)に強制収用に着手した。これに対し両名は強制収用を不服として1989年(平成元年)に収用差し止めを事業者である建設大臣に求めたが1993年(平成5年)4月にこれは棄却された。請求棄却に反発した両名は翌月土地収用を行う北海道収用委員会を相手に札幌地方裁判所行政訴訟を起こした。いわゆる「二風谷ダム建設差し止め訴訟」である。
Wikipedia 日本語版「二風谷ダム」より引用)

二風谷は、確かに沙流アイヌの中心地ではありますが、「アイヌの聖地」と言うのはちょっと語弊があるように思います。厳密には「ダム工事にてチノミシリが損なわれる」というのが、ダム建設反対運動の精神的支柱となったものと考えられます。

チノミシリ ~我ら・祈る・山~

「チノミシリ」は ci-nomi-sir ですから、よりそれっぽく書くと「チノミシㇼ」あるいは「チノミシㇽ」といったところでしょうか。逐語訳だと「我らが-祈る-山」といった感じになります。平たく言えば「聖なる山」ですが、現実的には「聖なる小山」といったほうがしっくり来るでしょうか。いわゆる「霊峰」的なものではなく、もう少し集落(コタン)に密着した「祈りの場所」といった感じのように思えます。

現在の、二風谷のダム湖の姿です。萱野茂さんや貝沢正さんが守ろうとした「チノミシリ」はどの辺だったのでしょうか。

……今日は何だか社会派ですね(←

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