さて、この博物館の生みの親でもある萱野茂さんについて……。
萱野 茂(かやの しげる、1926年6月15日 - 2006年5月6日)は、日本のアイヌ文化研究者であり、彼自身もアイヌ民族である。アイヌ文化、およびアイヌ語の保存・継承のために活動を続けた。二風谷アイヌ資料館(シシリムカ二風谷アイヌ資料館)を創設し、館長を務めた。
という方なのですが、何よりも萱野さんの名前が知れるきっかけになったのは
政治活動面ではアイヌ初の日本の国会議員(1994年から1998年まで参議院議員)。在任中には、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知って欲しい」という理由で、委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られる。
という出来事があったからでしょう。
略歴から足跡を辿る
その略歴から、さらにいくつかをピックアップしてみましょう。
略歴
なるほど……萱野さんの蒐集癖は 27 歳の頃から始まったようですね。実は、「二風谷アイヌ資料館」「平取町立二風谷アイヌ文化博物館」以外にも、「二風谷アイヌ資料館」の「別館」なる棟があってですね……。これがまたいろんな意味で凄いのです。後ほど写真をご覧に入れます。
- 1972年 - 収集した民具などを公開するため二風谷アイヌ資料館を設立。
そんなに古い建物には見えなかったのですが、結構長い歴史があるんですね……。
- 1975年 - 平取町町議会議員に当選。以後5期務める。
ここから、政治家・萱野茂の歴史が始まります。
当時は横路孝弘が北海道知事を務めていたのも(多少は)影響があったのかも知れません。結果は残念なものでしたが。
しかしながら、ラッキーなことに繰り上げ当選を果たします。ついに「アイヌ初の国会議員」が誕生します。
民主党に所属したのは、やはり横路孝弘の影響でしょうか。二風谷ダムの用地強制収用取り消し請求は「もう完成しちゃったし」とのことで棄却されるも、「でも、このダムはあっちゃダメだよね」とされ、こうして二風谷ダムは日本で唯一の「違法なダム」となったのでした。
また、「アイヌ民族が(北海道の)先住民族である」という判例を勝ち取ったり、アイヌ文化振興法の成立に尽力するなど、各方面でめざましい結果を勝ち取ったのも、この時期のことです。
これ、ぱっと見は「世襲」のようにも見える……というか、世襲に他ならないと言えばそうなのですが、社会党で当選した父親(萱野茂)は民主党に合流したのに、その息子が社民党から出馬というのもどことなく変な話に思えます。もしかしたら、社民党を切り捨てて民主党に移ったことに、多少の申し訳なさを感じていたのかも知れませんね。
政界引退時に残した言葉
アイヌ文化振興法を成立させ、国会議員としての目的を果たした萱野は一期限りで引退。その際「人(狩猟民族)は足元が暗くなる前に故郷へ帰るものだ」 という言葉を残している。
これもなかなかの名言ですね。感心至極です。
「チャランケ」とは?
「チャランケ」とは、「討論する」という意味のアイヌ語なのだそうです。
これはアイヌ語を母語としない人にも意味が通じたとされますが、「北海道方言」とまでは言えないようですね。
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