やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
ルルラン
標茶町市街地の南側、釧路川の東側に位置する集落の名前です。東西蝦夷山川地理取調図には釧路川の西側に「ルイラン」という地名が記されていますが、戊午日誌にある「ルイランヲシマ」が現在の「ルルラン」かなぁ、という気がします。
またしばし下り右
ルイランヲシマ
クルニウシ
此処クルニといへる木多きより号。
「ルイランヲシマ」は、永田地名解には「ルエラニ」として記載されています(ややこしい)。
Ruerani ルエラニ 阪ヲ下ル處 安政帳「ルエン、オシマ、イ」ニ作ル阪ヲ下リ入ル處ノ義
ふーむ。ru-e-ran-osma-i と読んだようですね。osma は知里さんの小辞典によると「はいる」あるいは「はまる」という意味なのだそうですが、ru-e-ran-osma-i であれば「道・そこから・降りている・入る・ところ」となりますね。
ru-e-ran-i (ルエラニ)という地名は割とあちこちで見かけます。逐語訳では「道・そこから・降りている・もの」となるのですが、山田秀三さんはこれをざっくりと「坂道」と訳していました。そういうことであれば、ru-e-ran-osma-i だと「坂道の入口」と言ったニュアンスになるのでしょうか。
標茶(しべちゃ)
さぁ、久しぶりの大地名です! 気合が入りますねー!
早速ですが山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。
標茶は古くから道東部の交通の要衝であった。上原熊次郎地名考(文政7年)によれば,釧路から根室の標津方面に出るのには釧路川を舟で標茶まで上り,そこから陸行して西別川上流の虹別に出て西別川を下った。
へぇぇぇ。標茶から虹別に向かったということは、多和川沿いを遡ったのでしょうか? 後の国鉄標津線も標茶から標津に向かって建設されましたが、舟行が輸送手段の花形だった頃は、標茶がこの辺りの一大ターミナルだったのですね。
次に、更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」から。
昔はここは根室領の西別川筋の者と、川上の屈斜路の人々と、釧路に住む人々とが物を交換するところで、互いに持って行った荷物を川端に置き、置いてある好きな荷物を背負って帰った無言貿易の場であったという。
うわ、面白いですね。今でも日本中に農産物の無人販売所がありますが、あのシステムを既に先取りしていたとは……。
あ、肝心の地名解を忘れてました(汗)。
永田地名解は「シペッチャ shipetchiya 大川端。大川の丘陵と云ふ義なり」と書いたが,実際はシ・ペッ・チャ(shi-pet-cha 大・川・岸)と訳すべきだろう。釧路川がシペッで,その岸の意。
なるほどー。si-pet-cha で「主たる・川・岸」なのですね。山田さんや更科さんの文章を見ると、何故に釧路川が si-pet だったのかが良くわかりますね。
オモチャリ川
標茶町中心部を西流している釧路川の支流の名前です。長さは 3 km くらいの短い川なのですが、しっかりと地理院地図にも名前が出ていました。
では、まずは永田地名解から。
Omorichari オモリ チャリ ? 名義未詳
これまたありがちな入り方で失礼しました。では、続いて「戊午日誌」から。
また十丁も下る哉右のかた
モセウシナイ
小川、其傍蕁麻多きより号る也。並びて東岸
ヲホンシヤライ
小川。此処にて昔し土人一人死したるが、其土人の名は(も)としも云はれぬと云事のよし也。本名ヲモチヤレと云よし也。其儀私は云はれぬと云儀のよし。
うーん。「ヲホンシャライ」を無理やり解釈してみると、o-{pon-sion}-rayで「そこで・小さな・子供・死ぬ」といった感じでしょうか。「ヲモチヤレ」で「私は云はれぬ」というのも首を傾げるしか無いのですが、o-mo-charo で「川尻・静かな・その口」……でしょうか?(厳しい……)
戊午日誌の解は一旦置いて、「オモチャリ」あるいは「オモリチャリ」という音から読み解いてみると、o-moyre-ichani あるいは o-mo-ichani あたりかな、という気がしてきます。
o-moyre-ichani であれば「川尻・流れの遅い・サケマスの産卵穴」となります。o-mo-icha-ni であれば「川尻・静かな・サケマスの産卵穴」です。以前にこの川で子供(だと思う)が事故死したことがあって、その記憶が根強く残っていたのかな、と思わせます。
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