「日本奥地紀行」を読む (130) 久保田(秋田市) (1878/7/23)
イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日は引き続き、普及版の「第二十一信」(初版では「第二十六信」)を見ていきます。
この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。
公式の歓迎
イザベラは、久保田(秋田)の病院が「外国人抜き」で作られた……というところに興味を持ち、病院見学を申し込んだものの「正式な手続きが必要」だとして丁重に断られてしまいます。そこでイザベラは伊藤(通訳)を伴って知事に面会し、病院見学の許可を取り付けたのでした。
病院側も、正式に許可を得たのであればこれ以上断る理屈も無いので、病院全体でイザベラを歓迎することになります。
院長と六人の職員の医師は、すべてりっぱな絹の服装であった。階段の上で私を出迎え、事務室に案内した。そこでは六人の事務員が書き物をしていた。ここにはうやうやしく白布でおおわれたテーブルと、四つの椅子があり、院長、主任医師、伊藤と私が坐った。煙草と茶菓子が出された。
どうやら事務室の一角に応接セットがあったような感じですね。最近は別室を設けることが一般的だと思いますが、昭和の頃までは普通にあった「よくある事務室」のレイアウトっぽい感じです。
この後に五十人の医学生を伴って病院の中を回った。彼らは知的な顔つきをしており、将来きっと成功するであろう。
これはもしかして……ドラマでお馴染みの「院長総回診」というヤツでしょうか(汗)。
病院は二階建ての大きな建築で、半ば西洋式であるが、四囲のベランダは奥行きが深い。
イザベラによると病院の建物は「半ば西洋式」とありますが、松本の「開智学校」のような「擬洋風建築」だったんでしょうか。二階が教室で、一階は入院患者を収容するほか、寄宿舎も兼ねていたとのこと。
一部屋で治療される患者の数は十人が限度で、重症患者は別室で治療される。壊疸 が流行していて、このとき病院を改造している医師長は、このため病室のいくつかを隔離している。
ここまで読んだ限りでは、病院のシステムは西洋風の近代的なもののように思えます。ただ「西洋医学」が人々の信用を得ていたとも言い切れないようで……
同じ病院内に性病院もある。毎年五十件ほどの重要な手術が、クロロホルムを使用して行なわれるが、しかし秋田県の人々は非常に保守的で、手足の切断や西洋の薬品の使用に反対している。この保守的気風が、患者の数を減少させている。
まぁ、こういった反応は秋田に限ったものでは無いのでしょうが、麻酔で患者を眠らせてその間に患部を切開するというのは、やはり悪魔の所業のような印象を与えていたのでしょうね。
悪い看護
ここから先は、「日本奥地紀行」の「普及版」でバッサリとカットされた内容が続きます。「日本人だけで運営する西洋医学の病院」というのは「奥地紀行」として見た場合、やはりオフトピックでしょうし、逆に言えば「初版」にこういった内容が含まれていたのは、イギリス政府などのスポンサー向けの「報告書」としては必要な内容だった、ということでしょう。
新任の主任医師であるカヨバシ[小林]医師は東京の医科大学から来た新人で、消毒剤の治療を取り入れてすばらしい成功をおさめていた。
この「カヨバシ医師」ですが、原文では以下のようになっていました。
Dr. Kayobashi, the new Chief Physician, is fresh from the Medical College at Tôkiyô, and has introduced the antiseptic treatment with great success.
確かに Dr. Kayobashi と記されていて、高梨謙吉さんはこれを「萱橋医師」と訳していました。ただ 1878 年(=イザベラが病院を訪問した年)の「
イザベラが羽後街道を北上中に二度ほど会話を交わした医師はこの「小林医師」で、東京から秋田に赴任する途中で偶然イザベラ一行と旅程が被ったと見られます。私的な旅行記の詳細が公刊された新聞記事で裏付けられるというのも面白いですね。
イザベラは小林医師からこの病院における医療の詳細を聞き出したようで、いくつか興味深いトピックが並んでいました。
ベッドは使用されていない。彼は、ベッドの良さは認めているのだが、それに対する強い偏見に譲歩することが今は必要だと分かったのです。
ふーむ。言われてみればちょっと前まで、畳の上に布団を敷いて寝るのが至上……という考え方の人も少なくなかったかもしれません。病院にキャスターつきのベッドが並ぶのはもはや当たり前の光景ですが、これも当初は拒否感を示す人が多かったのですね。
また、入院患者の看護についても、今ではちょっと信じられないような構図があったようです。
若干の男女の看護士がいるが、患者はふつう友人・知人を連れてきていて、彼らが世話をするが、その際、医者の指示には従いません。
病室にリンゴを持ち込んで、その場で皮を剥いて食べさせると言ったことは今でもあるのかもしれませんが、続く文脈で語られていることは想像を絶するレベルのものでした。
調理場は然るべくきちんと整えられていず、料理する人たちが食べていたダイコンと焼き魚の臭いがしていました。囲炉裏 は大量の調理には小さすぎるように見えましたが、これは、病棟で付き添いの人が火鉢 で料理しているという事実によって説明されます。食事は豊富ですが、完全に日本食です。
どうやら患者の友人・知人が病室に火鉢を持ち込んで、そこで病人用の食事を調理していたとのこと(汗)。「病院では病院食」というのは既に常識の域を超えた「定理」になっているような感がありますが、こんなフリーダムな時代もあったんですね……。
肉はめったに出されませんが、ブランデー、ポートワイン、ボルドー産赤ワインなど酒類は多くの場合に提供されます。ワインやブランデーはいつも卵といっしょにかき混ぜて[玉子酒で]出される。
これは「病院食」の用意もあったということでしょうか。「ブランデー、ポートワイン、ボルドー産赤ワイン」は原文では brandy, port wine, and claret とありますが、「ブランデーの玉子酒」というのは中々画期的な感じが……。また「肉はめったに出されませんが」というのも常に「肉不足」を訴えているイザベラらしいですね。
そしてイザベラは病院の運営主体について次のように指摘していました。
ここでは、どこでも見られるように、外国流のやり方で設立された病院において、政府が人々の自立を前提としているので、慈善事業による施設と呼ぶようなものはほとんどないということに気がつき興味深く思いました。
西洋では「医療」と「施し」と「宗教」が密接に結びついている印象がありますが、日本においては必ずしもそうではない……ということですよね。「教育」と「宗教」の結びつきは見られるにもかかわらず、「医療」と「宗教」の結びつきが見られない……という点を疑問視している、とも言えそうです。
日本における「公共の福祉」の考え方は今も昔もお粗末なもので、「受益者負担の原則」が綿々と生き続けているような印象もあります。公的支援を期待できない分をコミュニティ全体での支援で補っていたというのが「古き良き日本」の実態かもしれませんが、人口の都市部への集中でコミュニティの存在が希薄となり、ますます「生きづらい」社会になりつつある、とも言えそうですね。
イザベラは当時の医院における「受益者負担」のあり方を、次のように記録していました。
外来患者は、薬代を払い、入院患者は 1 日当たり相当の額を支払います。絶対的にひどく困窮している人々だけが知事の命令を得て無償の治療を受けられます。
なんか今と変わらないか、今のほうがひどくなっている(「生活保護」が機能していないケースが増えている)感もありますが、「国民皆保険制度」があって良かったな、という感想も同時に出てきます。これも本人負担が年々改悪されているのが残念な話ですが……。
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