引き続き、1878/6/30 付けの「第十三信」(初版では「第十六信」)を見ていきます。イザベラ一行は、阿賀野川に沿って北上して「野尻」の村落にやってきました。
美しい宿屋
イザベラの「野尻」の第一印象は、かなり良いものだったようです。
日暮れ時に野尻という美しい村に到着した。この村は、水田の谷間のはずれにあった。
現在は、JR 磐越本線の「上野尻駅」があって、その駅前通りが旧街道とぶつかるところに「上野尻」の集落が、そしてそこから北西に行ったところに「下野尻」の集落があります。下野尻の西には「車峠」と呼ばれる峠があり、国道 49 号は「車トンネル」で一気に抜けています。
イザベラは「野尻」は「美しい村」であるとしながらも、集落の中で一泊するのは気が進まなかったようです。
夕方ではあったが、私は穴の中のような宿で日曜日を過ごしたくはなかった。
イザベラがそう考えていたところで、山の中腹に一軒の建物を発見します。
一五〇〇フィートほど高い山の端に一軒家が見えたので、聞いてみると茶屋であることが分かったから、そこまで行くことにした。
1,500 ft は約 460 m ですが、車峠の南側にある山の標高が 449 m とのこと。あまりに正確ですが、これはさすがに偶然ですよね?
イザベラが「峠の宿屋」にやってきた頃、ちょうどあたりが暗くなり、しかも雷鳴が轟き始めます。情景が簡潔に記されているとても良い文に思えるので、まるまる引用しておきます。
暗闇となり、さらに雷鳴が稲妻を伴ってやってきた。ちょうど私たちが着いたとき、青い巨大な稲妻が宿屋の内部まで明るく照らした。焚火のまわりに大勢の人々が集まって腰を下ろしている光景が現われたかと思うと、次の瞬間にはあたり一面がまた真っ暗闇となった。それは、実にぞっとするような気持ちであった。
まるで映画のワンシーンのようですよね。
イザベラは、この車峠の宿屋について、次のように記していました。
この宿屋は、車峠の刀のように鋭い山の端にほとんど突き出るばかりという、すばらしい場所に立っている。私が今まで泊まった宿屋の中で、宿屋から眺めらしいものができたのは、この宿屋だけである。
一見「まぁた大げさな」と思える一文ですが、実はちゃんとした根拠のある話だったのでした。
村はほとんどきまって谷間の中にあり、しかも最上の部屋は奥の方にあるので、眺望といえば垣根をめぐらした因習的な庭園に限られるのである。
「村はほとんどきまって谷間の中にあり」というのは、これまで会津西街道沿いのルートを通ってきたから仕方のないことと言えます。「最上の部屋は奥の方にある」というのも、そう言われてみればごもっともな話です。
イザベラは峠からの眺望が楽しめるこの宿屋を気に入ったようですが、蚤の多さには辟易していたようで、「蚤さえいなければ私はここにもっと滞在したい」と記していました。他にも気に入った点があったようで、
会津の山々の雪景色はすばらしいし、ここには他に二軒しかないから、群集にわずらわされることなく自由に散歩できるからである。
……なるほど。これは切実な悩みどころだったのでしょうね。
魚の骨をのみこむ
ということで、久しぶりに群衆に煩わされることの無い自由を謳歌していた筈のイザベラでしたが、ちょっとしたアクシデントに巻き込まれます。
昨晩、隣の家で二歳半の子どもが魚の骨を呑みこんでしまい、一日中泣きながら苦しんでいた。母親の嘆きを見て伊藤はすっかり気の毒がり、私を連れていって子どもをみせた。
その計算高さからともすれば冷血漢に思えてしまう伊藤少年も、実は人の子だったということでしょうか。イザベラは取り乱す母親の姿を冷静に観察しながら、適切な処置を施します。
私が喉の中を調べることを、たいそう嫌がっていた。骨はすぐ見えたので、レース編みの針で簡単に取り除くことができた。
当然のことながら母親は大いに喜び、お礼として餅菓子や駄菓子をイザベラに贈ったそうです。この手の「奇蹟」の話が一瞬にして伝播するのは当時の常だったようで、
夜になるころ、脚に腫れ物をした人が七人やってきて「診察」を受けたいという。
お決まりのパターンに突入したのでした。
その炎症はすべて皮膚の表面だけで、似たものばかりであった。それは蟻に咬まれたあとを始終こすっていたためにできたのだ、と彼らは語った。
イザベラが、これらの「患者」に対してどのような対応を行ったのかは、本文には記されていません。
貧困と自殺
イザベラは、この美しい村にも大いなる悲しみが存在することを聞かされます。
しかし、ちょうど下の杉の木に下がっている二本の麻縄が、貧乏のために大家族を養うことができず二日前に首をくくった一人の老人の、悲しい物語を語っている。
遠く離れた異国から観光にやってきた一民間人にこのような話を語り聞かせるのも如何なものか……と思わないでも無いですが、そうでもしないとやりきれない思いがあったのでしょうね。
宿の女主人と伊藤は、幼い子どもたちをかかえた男が老齢であったり病身であったりして働けなくなると、自殺することが多い、と私に話してくれた。
このあたりの「自殺の構造」は、現代社会とは若干異なるものがあるようにも思えます。現代社会においては社会保障である程度はカバーできているのかもしれませんね。
日本奥地紀行の「普及版」では、陰鬱な「自殺談義」はここまでですが、初版では更に詳細が記されていました。日本人の精神性を理解する上では重要な記述ですが、確かに紀行文としては踏み込みすぎた感もあるので、カットされたのも妥当だったかもしれません。
自殺は非常に普通に見られるようだ。結婚したいと思っている若い男女が親に承諾を拒まれたとき、彼らはしばしば一緒に身体を縛り、水に飛び込んで溺死する
なるほど、近松の「曽根崎心中」の世界観は健在だったということでしょうか。現代においては「心中」は生活苦に起因するものが多い印象があります。
イザベラは、自殺における男女の差についても次のように記していました。
女の人は決して首吊りをしないが、予想されるところだろうが、自殺は男性の間よりも女性の間でよりありふれたことなのです。
「予想されるところだろうが」というのが少々意味深長ですが、これは日本における女性の抑圧ぶりを念頭に置いたものだったのでしょうか。
イザベラの分析は更に続きます。
そして鋭い恥の感覚、恋人たちの喧嘩、数年に亘る年季奉公の仕事の管理人による芸者その他への虐待の仕打ち、年齢や病気を通しての個人的な魅力の喪失、およびそのような喪失への恐怖でさえもがもっともありふれた原因です。
……うーん、なかなかの慧眼ですね。特に「鋭い恥の感覚」という点について、イザベラはどの程度「ハラキリ」という「文化」を理解していたのかが気になるところです。
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