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旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

紀勢本線各駅停車 (17) 「切目・岩代」

印南駅を出発するとトンネルを 2 本通り抜けますが、これらのトンネルは複線化工事の際に新設されたようで、元々は海側を連続カーブで通過していました。線路跡は道路に転用されていて、一般車も通行可能のようです。

かつてはここに線路が通っていて、蒸気機関車が煙を吐いて疾走していた……ということになるんですよね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

切目駅

トンネルの先の右カーブを抜けると、脇に保線用資材が置かれた線路が見えてきました。かつては貨物ホーム用の線路だったのでしょうか。

切目駅に到着しました。今は日高郡印南町ですが、かつては「日高郡切目村」だったとのこと。町内に 3 つも駅があるのは多いなぁと思ったのですが、かつての村ごとに設置されていたのですね。

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紀勢本線各駅停車 (16) 「稲原・印南」

和佐駅を出発して、「新柿ノ木トンネル」とそれに続く 2 本のトンネルを抜けて日高郡印南町に入りました。駅でもないところに歩道橋があるというのは珍しいような、そうでも無いような……(どっちだ)。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

稲原駅

駅でもないところに歩道橋が……と思っていると、50 m ほど先にまたしても歩道橋が。こちらは駅の歩道橋で間違いなさそうですね。これだけ隣接して歩道橋が続くというのも、色々と大人の事情もあるのだと思いますが、なんか勿体ない感じがしますね。

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紀勢本線各駅停車 (15) 「道成寺・和佐」

紀伊田辺行き 2353M は 2 分遅れで御坊を出発しました。この駐車場も月極のようですが、JR で通勤する人も多いのでしょうか。御坊駅が敷地を切り売りするのも納得ですね。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

道成寺駅

3 分ほどで次の道成寺どうじょうじ駅に到着です。相対式ホーム 2 面 2 線というシンプルな構造ですが、航空写真を見る限りでは上り線の紀伊田辺側に貨物ホームがあったように見えます(写真とは反対側)。

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紀勢本線各駅停車 (14) 「御坊・その5」

3 番線に 2 両編成の電車が入線してきました。紀伊田辺からやってきた御坊止まりの 2354M で、折り返しで紀伊田辺行き 2353M となります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する車輌・番線などが現在とは異なる可能性があります。

この見慣れない車輌、国鉄時代から大阪近郊を走っていた通勤電車に似ていますが、よく見ると横幅がちょっと広いんですよね。

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紀勢本線各駅停車 (13) 「御坊・その4」

次に乗車する紀伊田辺行き 2353M の入線を見届けるべく、ささっと駅構内に戻ります。

【ご注意ください】この記事の内容は、特記のない限りは 2016 年 6 月時点のものです。列車の時刻や使用する番線などが現在とは異なる可能性があります。

改札から再入場すると……あ。目の前で和歌山行き 358M が行ってしまいました。

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北海道のアイヌ語地名 (943) 「ペケレイ川・秋の川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ペケレイ川

peker-i?
明るく清い・ところ
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

JR 釧網本線・中斜里駅の南東で猿間川に合流する東支流(南支流)です。「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘケレイ」という名前の川が描かれていて、明治時代の地形図にも「ペケレイ川」と描かれていました。明治時代の地形図では殆どの川が「ペツ」または「ナイ」で終わっているにもかかわらず、「ペケレイ川」だけは何故か「川」つきで描かれていました。

永田地名解には次のように記されていました。

Pekere-i   ペケレイ   水明ノ處

peker は「澄んだ」「明るい」「清い」と言った意味で、転じて「白い」を意味する場合もあるとのこと(「白い」は retar のほうが一般的かもしれませんが)。ちなみに「割れる」や「破れる」を意味する perke という語があるので、pekerperke を間違えないように注意が必要です。

知里さんの「斜里郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ペケレイ猿間川左支流) 「ペケレ・イ」(peker-i 明るい清い・所)。詳しく云えば「ペ・ペケン・ナイ」。ペは「水」,ペケンはペケレの変化で「清い」,ナイは「川」,水のいい川,清水川,の意。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.259 より引用)

peker-i で「明るく清い・ところ」ではないか、ということですね。かつてこの川が pe-peken-nay と呼ばれていた……ということが確認できれば「証明終わり」となるのですが、少なくとも松浦武四郎の時代から「ペケレイ」と記録されているんですよね。

peker と pekere

ちょっと気になったのですが、「地名アイヌ語小辞典」には、peker の次に pekere という語が記されていました。

pekere ペけレ 【K】川ばたの湿地
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.88 より引用)

これは【K】とあるので樺太での用例ということになりますが、peker-i よりも pekere-i のほうが「ペケレイ」に近いわけで……。「川沿いの湿地」があっても不思議はない場所であることも気になるところです。

ただ、現時点では他に pekere という語の使用例を知らないということもあり、とても pekere-i をゴリ押しするのは無理があるかな、と感じています。樺太での pekere の用例の有無を確認後に、改めて検討してみたいところです(忘れてなければ)。

秋の川(あきの──)

aki??

a-ku-i???
我ら・飲む・もの
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)(??? = 典拠なし、類型未確認)

JR 釧網本線・中斜里駅の東で猿間川に合流する東支流(南支流)です。どう見ても和名じゃないか……と思われるかもしれませんが、明治時代の地形図には「アキペッ」という名前の川が描かれていて、しかも「東西蝦夷山川地理取調図」にも「アキ」という地名?が描かれていました。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     シ ヤ リ
 川巾五十間斗、本名シベシと云也。船渡し。此川筋の事は山越の所に多く書(たれ)十二日(志る)さず。然れども其順次はウエンヘツ、サヌル、トイサ(ヌ)ル、ヲサウシ、ワツカウイ、アタクチヤ、シヤリバ、アキシユイ、ライノロナイ、イタシナヘツ等。其源はシヤリ岳より落る也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.391 より引用)

これは斜里川とその支流について記しているように見えるのですが、「イクシナヘツ」と思しき川が「イシナヘツ」になっていますし、「ライノロナイ」はもしかしたら「ライクンナイ」のことでしょうか。

川の順序も滅茶苦茶に見えたのですが、これは最大の支流である「猿間川」のことだと思われる「シヤリバ」を意図的に後回しにした、とすれば理解できます(「シヤリバ」以降は猿間川の支流と考えられる)。もっとも、仮にそうだとしても「イタシナヘツ」」が最後に出てくるのはおかしい……とも言えるのですが。

「アキ」は「弟」

問題の「秋の川」ですが、「東西蝦夷山川地理取調図」では「アキ」であり、「竹四郎廻浦日記」では「アキシユイ」と記されているように見えます。ただ「午手控」には「シャリバ川すじ」の情報として「ヲツホコマフ 右小川」「イクシ(ナ)ヘツ 左小川」「カモイハケヘシ 左小川」「アキ 左小川」「ヘケレイ 左小川」とあるため、「アキシユイ」は何らかの間違いが含まれている可能性がありそうです。

謎の「アキ」ですが、「斜里郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 アキペッ(左支流)。語原不明。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.259 より引用)

なんということでしょう~®。いやー参りましたね。……ということでここで隠し玉の登場ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Aki  アキ  ? 弟ノ義ナレドモ意義傳ハラズト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.496 より引用)

おや、aki「弟」なんて意味があったかな……と思って「──小辞典」を確かめたところ……

ak, -i あㇰ 弟。
知里真志保地名アイヌ語小辞典」北海道出版企画センター p.5 より引用)

この「地名アイヌ語小辞典」は文庫版で本文が 146 ページしか無く、現在公刊されているアイヌ語辞書類と比べると収録語数がかなり少ないのですが、地名に特化した頻出語彙と要注意語彙がピックアップされていて、随分とお役立ち度の高い本だったりします。

知里さんは「永田地名解」を盛大に貶したことでも有名ですが、地名調査の際にはいつも永田地名解を持参していたというエピソードもあり、全文に目を通していた可能性も高そうです。「──小辞典」に ak, -i の項があるのは永田地名解のおかげ……かどうかは不明ですが、何らかの因果関係があったとしても不思議では無さそうです。

釧路市阿寒町飽別

「アキペッ」と似た地名として、釧路市(旧・阿寒町)に「飽別あくべつ」という場所があります。「飽別」は hak-pet で「浅い・川」だとする説のほかに、ak-pet で「射る・川」としたり、akpe で「」ではないかという説もあるようですが、山田秀三さんは a-ku-pet で「我ら・飲む・川」とも読める……としていました。

山田さんの a-ku-pet 説の元ネタは、知里真志保山田秀三共著の「幌別町のアイヌ語地名」でしょうか(当該書 p.22 の脚註に a-ku-nay の記載あり)。「秋の川」の「アキ」も a-ku が変化したもの……と見ることも可能かもしれません。

「秋の川」からそれほど遠くないところに「ペケレイ川」が流れていますが、「ペケレイ川」は「秋の川」と比べると随分と小規模な川で、常に一定の水量を保つことは容易では無さそうに見えます。また「ペケレイ川」の近くには「水無川」や「水無沢川」という川があり、このあたりは「涸れ川」が多そうな印象も受けます。

「弟」説の再検討

明治時代の地形図には「アキペッ」と描かれていましたが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「アキ」とだけ描かれていて、左右には川が描かれていません。これはもしかして a-ku-i で「我ら・飲む・もの」という認識で、実態は湧き水のような場所だったのか……と想像したくなります。ただ、この手の湧き水は mem と表現するのが一般的なんですよね。

北側に巨大な葭原(≒湿原)があるということもあり、a-ku で「我ら・飲む」という解釈はとても魅力的に思えますが、現時点では類推でしか無く、永田地名解の「『アキ』は『弟』の意味だけど」という註を無視できるほどのものではありません(なんか今日はこんな感じの展開が続いてしまってすいません)。

「秋の川」は、「幾品川」と比べると規模の小さい川ですが、流れる方角は似通っていて、秋の川を遡ると峠らしい峠も無いまま幾品川の流域に出ることができます。このことから「幾品川の弟」と呼んだ……と考えることも可能ではないかと。

更に言えば「幾品川」も「向こう側の川」である可能性が高いので、川の手前に係累(弟)がいた……というストーリーもあってもいいかも? とか……。

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北海道のアイヌ語地名 (942) 「羅萌」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
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羅萠(らむい)

{rarma-ni}-us-nay?
{イチイの木}・多くある・川
ra(p)-oma-i??
翼・そこにある・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)

JR 釧網本線の「中斜里駅」の西に「南斜里駅」という駅があったのですが(2021 年 3 月に廃止)、地理院地図では駅のあったあたりの南側(川向かい)に「羅むい」と表示されています。これは斜里町の字だと思われるのですが、何故か住所としては使用されていないようで、斜里町の郵便番号一覧には記載がありません。

また、かつて南斜里駅があった所から 0.6 km ほど東、道道 1000 号「富士川上線」(南九号)と西一線の交点付近に「羅萌らむい」という名前の四等三角点が存在します(標高 9.0 m)。ただ、戦前に測図された陸軍図では斜里川の南側に「羅萠」とあり、川の北側には「川上」とあるので、やはり本来の「羅萠」は川の南側だったようにも思われます。

永田地名解にはそれらしい地名(川名)の記載が見当たらないのですが、知里さんの「斜里郡アイヌ語地名解」には次のように記されていました。

 ラモイ 不明。カムイ,すなわち熊の訛りだとも云う。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)

むむむ。永田地名解に「?」と言われるのはしょっちゅうですが、知里さんに「不明」と言われるのは滅多にないことのような……。

「ラムイ」? 「タモイ」?

明治時代の地形図には「羅萠」の南の谷の位置に「タモイ」という川が描かれていました。「ラムイ」ではなく「タモイ」が本来の形だとすれば、tam-o-i で「刀・そこにある・もの(川)」と読めるでしょうか。地名に「刀」というのは意味不明な感じもありますが、川(谷)の西側の台地か、あるいは台地を刻む川そのものを「刀」に見立てた……というストーリーを考えたくなります。

逆に「タモイ」が「ラムイ」の訛った形で、「ラムイ」が本来の形に近いとしたならば、ra(p)-oma-i で「翼・そこにある・もの(川)」と読めそうな気がします。これは支笏湖畔の「モラップ」からの類推でもあるのですが、川の両側に高さ 50 m ほどの台地があることを指して「両翼」に見立てたのでは……という考え方です。

「ラルマニウシナイ」

「東西蝦夷山川地理取調図」には、この「ラムイ」あるいは「タモイ」に相当する地名は見当たらないのですが、「ウエンヘツ」(斜里新大橋のあたり?)と「ルウヘツチヤウシナイ」(清里町駅の北あたり)の間の左支流として「ラルマニウシナイ」という川が描かれていました。

「竹四郎廻浦日記」には次のように記されていました。

     ライベツ
此辺谷地多く道甚(悪)し。ライは谷地同様と云訳。ベツは川也。此辺土蘇木(夷言ラルマニ)多し。甚巨大なるは一囲二囲に及ぶもの有。然し囲に合ては長(く)のびざるもの也。土人好で此実を喰する也。此辺平地谷地様の処多し。
 また此処より平川を越て東の方にラルマニノホリと言て土蘇木のみ有る山有と云り。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 下」北海道出版企画センター p.395 より引用)

当時の交通路は律儀に斜里川沿いを遡ったのではなかったようで、「ライベツ」の先の「ルウベツチヤウシナイ」(=清里町駅の北あたり)で「此所にて本川端に出たり」とあります。これは斜里の市街地から清里町駅に向かってショートカットしたことを示唆しているように読めますが、ここでのポイントは「東の方にラルマニノホリ」で、これは東のほうに rarma-ni、すなわち「オンコ(イチイ)の木」の繁る「山」がある……ということになります。

この「ラルマニノホリ」は、斜里川の東支流である「ラルマニウシナイ」と関連があると思われるのですが、「斜里川の東支流」と「清里町駅の東側の山」という条件を満たすのは「羅萠の南の谷と台地」しか無い……ということになるでしょうか。

改めて知里さんの「斜里郡アイヌ語地名解」を見てみると、「ラモイ」の上に「ラルマニウㇱナイ」という項がありました。

 ラルマニウㇱナイ 語原「ラルマニ・ウㇱ・ナイ」(rarmani-us-nay アララギ・群生する・沢)。
 ラモイ 不明。カムイ,すなわち熊の訛りだとも云う。
知里真志保知里真志保著作集 3斜里郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.256 より引用)

アララギ」=「イチイ」なので、{rarma-ni}-us-nay は「イチイの木・多くある・川」と考えて良さそうですね。

「ラモイ」と「ラルマニウㇱナイ」

ということで、「タモイ」あるいは「ラムイ」の意味は……という本題に戻るのですが、一つは「ラルマニウンナイ」がざっくりと略されたという可能性が考えられるでしょうか。ただ、「斜里郡アイヌ語地名解」に「ラルマニウㇱナイ」と「ラモイ」が併記されているので、「ラルマニウㇱナイ」と「ラモイ」は別物である可能性も残ります。

「ラルマニウㇱナイ」は川の名前で、「ラモイ」が「ラルマニウㇱナイ」の河口付近の地名だと考えると、「ラモイ」を ra(p)-oma-i で「翼・そこにある・もの(川)」と見ることも一応は可能でしょうか。結局は同じ川の名前じゃないか……というツッコミもあろうかと思われますが……。

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