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辺渓(ぺんけ)
美深町の東部に「仁宇布」という集落があります。スバルのテストコースのあるところですが、今では「トロッコ王国美深」のあるところ、として有名でしょうか。
「トロッコ王国美深」では、かつての国鉄美幸線の線路を(エンジン付きの)トロッコで走ることができます。その国鉄美幸線は「ペンケニウプ川」沿いに敷設されていて、「辺渓駅」という駅も存在していました。
ということで(回りくどいな)、「北海道駅名の起源」を見ておきましょう。
辺 渓(ぺんけ)
所在地 (天塩国)中川郡美深町
開 駅 昭和 39 年 10 月 5 日 (客)
起 源 アイヌ語の「ペンケ」(小川の上流)から出たもので、地元の字(あざ)名の「辺渓」をとったものである。
今更ですが、「辺渓」は「ペンケニウプ川」に由来すると考えられます。penke-ni-o-p で「川上側の・木(流木?)・多くある・もの」と考えられそうです。
三渓(さんけい?)
美深町辺渓で「ペンケニウプ川」に合流する「ペンケ十号川」という北支流があります。この「ペンケ十号川」と「ペンケニウプ川」の間に標高 501.9 m の山があるのですが、なんとこの山の名前が「三渓」というのだそうです(「三渓山」ではなく「三渓」)。山の名前は(川とは違って)たまに「山」も「岳」もつかないのもありますが、それにしても「三渓」というのは変わってますよね。
明治時代の地形図を見てみると、現在の「ペンケ十号川」のところに「サンケシヨマ」と描かれている……ように見えます(「シ」がやや不明瞭ですが)。この「三渓」という変わった名前の山は、どうやら近くを流れる川の名前を拝借したようですね。
「サンハヲマナイ」と「サンケヲマナイ」
この情報を認識した上で、改めて「東西蝦夷山川地理取調図」を確かめて見ると、おかしなことに気が付きます。ペンケニウプ川(ヘンケニウフ)の最初の北支流は「サンハヲマナイ」で、その手前に南支流の「サンケヲマナイ」があるように描かれています。
「サンハヲマナイ」と「サンケヲマナイ」ですが、それぞれ現在の「ペンケ十号川」と「七線沢川」に相当すると思われます。ただ、「東西蝦夷山川地理取調図」にある「サンケヲマナイ」が南支流で、明治時代の地形図にある「サンケシヨマ」は北支流として描かれているので、「東西蝦夷山川地理取調図」が南北(左右)を間違えたか、あるいは川名が移転したか、何らかの間違いまたは変化があったと考えられそうです。
「サンケヲマナイ」=「サンケシヨマ」?
山名「三渓」の元となった川名は「サンケシヨマ」だった可能性がありますが、「サンケシヨマ」は san-kes-oma(-nay) で「出崎・末端・そこに入る(・川)」と解釈できるかと思います。
では「サンハヲマナイ」は
「サンハヲマナイ」も同様に san-pa-oma-nay で「出崎・かみて・そこに入る・川」と考えられそうです(pa は kes の対義語です)。san は「出崎」以外にも「坂」や「棚のような平山」という解釈もありますが、「七線沢川」の西側の山は「棚のような平山」と呼べそうな形をしています。
「東西蝦夷山川地理取調図」には、南支流として「サンケヲマナイ」が描かれていますが、どちらかと言えば「サンハヲマナイ」っぽい感じがします。やはり「東西蝦夷山川地理取調図」は南北(左右)を間違えていたんじゃないかなぁ、と思います。
オロ沢川(おろさわ──)
ペンケニウプ川の南支流で「七線沢川」という川があります。前述の通り、かつては「サンハヲマナイ」と呼ばれていた可能性がありそうな川です。
七線沢川を遡ると「朱屋朗山」の北麓に出ますが、そこからもう少し源流側に遡ったところで、川が二手に別れます。七線沢川の本流はおそらく右側(南側)で、北側の支流が「オロ沢川」です。
明治時代の「北海道地形図」を見ると、現在の「七線沢川」のところに「オロウェンニウプ」と描かれていました。oro-wen-{ni-o-p} で「その中・悪い・{ニウプ川}」と解釈できそうな感じでしょうか。
少し話がややこしくなるのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘンケニウフ」(ペンケニウプ川)の上流部の支流として「ヲロウエンヘフ」という川が描かれていました(現在の川名は不明)。
「七線沢川」は元々は「サンハヲマナイ」だった可能性があり、それが「オロウェンニウプ」と呼ばれるようになったと考えられますが、この「オロウェンニウプ」が「ヲロウエンヘフ」の移転したものなのか、あるいは偶々似たような別名?があったのかは、良くわかりません。
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