Bojan International

旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

北海道のアイヌ語地名 (1014) 「カイカラコタン川・後静川・辨慶」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

イカラコタン川

kay-kor-kotan???
波・持つ(・島に向かう)・村
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

厚床駅のあたりから国道 44 号の南側を東に向かって流れて、最終的には風蓮湖に注ぐ「別当賀川」という川がありますが、別当賀川の河口から 1.7 km ほど西北西を「カイカラコタン川」という川が流れています。

また、西側を流れる「厚床川」の北側に「貝殻古丹」という名前の四等三角点もあります(標高 14.25 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしい名前の川が見当たりません。2023/2/18 の記事で検討したように、「東西蝦夷──」で「ヲホコヲマナイ」とされている川のあたりに「カイカラコタン」という地名があった可能性がありそうです。

「カイカラコタン」という地名を考える上で忘れてはならないのが、かつて風蓮湖に存在したと思しき「カイカラモシリ」という島です。現在の地形図では見当たりませんが、古い地図を見た限り、ハルタモシリ島の南東、湖口から 1.4 km ないし 1.7 km ほど西のあたりにあったと思われます。

この「カイカラモシリ」や「カイカラコタン」についての記述は、松浦武四郎の書物には見当たらないように思えるのですが(見落としだったらすいません)、永田地名解には次のように記されていました。

Kai kara kotan   カイ カラ コタン   櫂ヲ取リシ處 古ヨリアイヌ部落ハナシト云フ

うーん。手元の辞書類で「櫂」を牽いてみるといくつも出てくるのですが、assap あるいは asnap とあるほか、和語からの移入語と思しき sakkaytomonkay なども「櫂」を表す語彙として出てきます。「アイヌ語方言辞典」にも「櫂」の項があるのですが、殆どが assap あるいは asnap のようで、要は kai あるいは kay だけで「櫂」を表したケースがあったかどうか、ちょいと疑わしいように思えます。

また、「櫂を取るところ」という考え方は、風蓮湖のど真ん中に存在したと考えられる「カイカラモシリ」には相応しくないように思えます。もちろん似て非なる地名がたまたま近くに存在したという可能性もあるのですが、両者がリンクしていたと考えるほうが自然なのではないかと思えるのですね。

ということで、永田説を否定するならどうするか……という話になってしまうのですが、kay は「折れ波」を意味するとされるので、kay-kor-mosir で「波・持つ・島」あたりでしょうか。

そして、結局「カイカラコタン」って何なのさ……という疑問に戻ってしまうのですが、「カイカラモシリ」に行き来する拠点だった、とかでしょうか(永田方正も「コタンは無かった」と書いていますし)。だとすると「カイカラコタン」の意味を云々することも多分に循環参照気味にも思えてきますが、kay-kor-kotan で「波・持つ(・島に向かう)・村」となるでしょうか。

明治時代の記録があるので、アイヌ語に由来する可能性が高いと考えていますが、明治以前の記録が見当たらないという点で若干不穏な感じもするので、「要精査」としています。

後静川(読み不明)

osura-us-i??
捨てる・いつもする・ところ(川)
(?? = 典拠あるが疑問点あり、類型未確認)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

別当賀川の南支流で、厚床と初田牛の間あたり(根室市厚床)を流れています。お隣の浜中町に「後静しりしず」という地名があるのですが、ちょっと(かなり?)離れているんですよね。

この川は明治時代の地形図にも名前の記入が無いのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲシルシ」という支流が描かれていました。面白いことに、この支流は永田地名解にも記載がありました。

Oshuru ushi   オシユル ウシ   負フ處 坐シテ背負フヲ「オシユル」ト云フ、此處坐シテ鷲ヲ負フ故ニ名ク今此ノ川ヲ「ヌツパ」川ト呼ブ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.369 より引用)

あー、そう言えば「ニツパ川」という支流が描かれている地図がありますが、これは現在「ニッペ川」と呼ばれる川のことで、「後静川」はもう少し西側を流れています。これは果たして同じ川であると言えるか疑わしい感じもするのですが、この程度の混乱は割と良くある話のような気も……(ぉぃ)。

「オシユル」に「負う」という意味があるかどうかは確認できていないのですが、osura で「捨てる」という意味があるので、osura-us-i で「捨てる・いつもする・ところ」と読めそうな気がします。地名で「捨てる」と言えば 「川の合流点」を意味する「ペテウコピ」という頻出地名があるのですが、これは pet-e-u-ko-hopi-i で「川が・そこで・お互い・に・捨て去る・ところ」だとされます。

改めて「後静川」の合流点を見てみると、見事に左右に分かれているように見えます。「東西蝦夷──」には「ヲシルシ」より下流側の川が殆ど描かれていないという不審な点もあるのですが、osura-us-i で「捨てる・いつもする・ところ(川)」と考えて良いのでは無いでしょうか。

あと、どなたかこの「後静川」(根室市)の読み方が確認できる資料をご教示願えれば助かります……。

辨慶(べんけい)

pon-penke-{to-paye}
小さな・川上側の・{東梅}
(典拠あり、類型あり)
(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

国道 44 号と JR 根室本線花咲線)の別当賀駅を結ぶ道道 953 号「別当賀酪陽線」沿いに「辨慶べんけい」という名前の四等三角点があります(標高 40.2 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヘンケトウナイ」と「ハンケトウナイ」という川が描かれています。明治時代の地形図には「ペンケトーパイェ」という川が描かれているのですが、何故か「ハンケ──」に相当する名前の川が見当たりません。また「ペンケトーパイェ」はこれは現在の「第 1 トウバイ川」に相当するようで、「辨慶」三角点とは少し離れてしまっています。

「辨慶」三角点の近く(東側)には「第 2 トウバイ川」という川が流れているのですが、どうやらこの川がかつて「ポンペンケトイエ」と呼ばれていたようです(手書きの文字からは「ポンペンケトペイエ」と読めるのですが、やはり「トペイエ」は「トパイエ」の誤記ではないかと)。

「トパイエ」あるいは「トーパイエ」は「東梅」のことで、to-paye で「沼・行く」ではないか……とされています。この解の是非はさておき、「辨慶」三角点の名前は pon-penke-{to-paye} で「小さな・川上側の・{東梅}」だと見て良さそうに思えます。

前の記事続きを読む

www.bojan.net
Copyright © 1995- Bojan International