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旅行記・乗車記・フェリー乗船記やアイヌ語地名の紹介など

北海道のアイヌ語地名 (897) 「幌内・稚内」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

幌内(ほろない)

poro-nay
大きな・川
(典拠あり、類型多数)

苫小牧西港フェリーターミナル」と東隣にある「日本軽金属工場」の間を「幌内川」という川が流れています。幌内川の上流部は「北海道大学研究林」の中を流れていて、源流部は国道 276 号の北に位置します。勇払川や勇振川、苫小牧川と比べると若干短いものの、そこそこ長い川の一つです。

幌内川中流部の流域は、現在は「苫小牧市字高丘」と呼ばれていますが、かつては地名も「幌内」だったようです。北大研究林の施設のすぐ南には「高丘浄水場」があり、浄水場の敷地のすぐ北に三等三角点「幌内」があります(標高 52.1 m)。

「東西蝦夷山川地理取調図」には、「ユウブツ」の南支流として「ホロナイ」という川が描かれていました。現在のようにフェリーターミナルに向かって直接注ぐ流路ではなく、もともとは湿原の中を東に向かって流れていたようです。

戊午日誌「東西新道誌」にも「ホロナイ」と記録されていました。意味は素直に poro-nay で「大きな・川」と考えて良いかと思われます。

稚内(わっかない)

wakka-nay???
水・川
(??? = アイヌ語に由来するかどうか要精査)

苫小牧中央 IC と支笏湖を結ぶ国道 276 号には、かつて「王子軽便鉄道」という鉄道路線が並走していました。線路跡は「自転車専用道路」として整備されていますが、自転車専用道路として整備されるに際して途中に立体交叉が設置されています。

厳密には「線路跡」はこの立体交叉の手前までのようで、ここから支笏湖までは、自転車専用道路は線路跡から 100 m ほど離れた国道の南側を通っています(線路跡には送電線があるため、航空写真で容易に識別できます)。

二等三角点と三等三角点

前置きが長くなりましたが、立体交叉の近くには標高 106.1 m の二等水準点があり、そのすぐ近くに「稚内」という名前の二等三角点があります(但し成果状態が「処置保留」となっているため、現在は三角点として機能していないのかもしれません)。

更にややこしいことに、二等三角点「稚内」から 4 km ほど支笏湖方面に向かったところ(自転車道の南側)にも「稚内」という名前の三等三角点があります(標高 160.4 m)。こちらは成果状態も「正常」のため、現在も三角点として機能しているようです。

謎の「ワッカナイ」

稚内」と言うからには、このあたりに「ワッカナイ」と解釈できる地名(おそらく川名)があったのだと考えたくなりますが、手持ちの情報は全くありません(ぉぃ)。

二等三角点「稚内」と三等三角点「稚内」はいずれも国道 276 号沿いで、苫小牧川の北側に位置しています(厳密には、三等三角点「稚内」は勇払川の流域と言えそうですが)。

少なくとも川に名前はあった

現在の「苫小牧川」は、「東西蝦夷山川地理取調図」では「マコマイ」という名前で描かれていました。支流として「マサラマヽ」があり、上流部には「ホンマコマイ」と「ホロマコマイ」という名前の川が描かれています。

一方で明治時代の地形図を見てみると、下流部に「ヲテイ子ウシ」という支流が描かれていて、中流部に「ポンコマナイ」という西支流が描かれています。また三等三角点「稚内」の近くを「チヨロノプンナイ」という支流が描かれているほか、更に上流側の西支流として「ヒヒポノウシユマコマナイ」という川が描かれていました。

「ヒヒポノウシユマコマナイ」は「コヒポクウシユマコマナイ」の可能性があるかもしれません。だとしたら随分な誤字ですが……。

とりあえずこれらの情報からわかることは、松浦武四郎(や永田方正)の記録は完全なものでは無いということ(何を今更という話ですが)と、苫小牧川(マコマイ)の支流にもアイヌ語で解釈できる川名があったらしい、ということです。

「チヨロノプンナイ」とは

三等三角点「稚内」の近くを流れていたと思しき「チヨロノプンナイ」は chironnup-un-nay で「キツネ・いる・川」と解釈できるかもしれません。chironnup (cironnup) は主に「キツネ」と解釈する場合が多いようですが、本来は「獲物」「けだもの」と考えるべきのようで、「タヌキ」や「エゾイタチ(オコジョ)」を意味する場合もあるとのこと。また派生型として worun-chironnup で「カワウソ」を意味するようです(水にいる・けもの)。

獲物の棲息地を意味する川名があるということは、猟師がこの山の中に分け入ることもあったと考えられます。苫小牧川(マコマイ)にはいくつもの支流がありますが、その中で飲水を得るのに適した川を wakka-nay で「水・川」と呼んだ……としても不思議はないかも……と言ったところでしょうか。

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「日本奥地紀行」を読む (126) 六郷(美郷町)~神宮寺(大仙市) (1878/7/20~21)

イザベラ・バードの「日本奥地紀行」(原題 "Unbeaten Tracks in Japan")には、初版(完全版)と、いくつかのエピソードが削られた普及版が存在します。今日からは、普及版の「第二十信(続き)」(初版では「第二十五信(続き)」)を見ていき……あれっ。

高梨謙吉さん訳の「日本奥地紀行」では何故か「第二十信(続き)」が二つ続けて存在してしまっているのですが、原文では LETTER XXV.──(Continued.)LETTER XXV.──(Concluded.) となっています。

どうやら高梨さん(と編集者)のうっかりミスに思えるのですが、不思議なことに時岡敬子さんの「イザベラ・バード日本紀行(上)」でも「第二五信(つづきその一)」と「第二五信(つづきその二)」となっています。Concluded をどう和訳するかはなかなか悩ましいですが、「結論」だとちょっと重いので「結」あたりが良さそうでしょうか……?

この記事内の見出しは高畑美代子「イザベラ・バード『日本の未踏路』完全補遺」(中央公論事業出版)の「初版からの省略版(普及版)の削除部分を示す対照表」の内容を元にしたものです。当該書において、対照表の内容表示は高梨謙吉訳「日本奥地紀行」(平凡社)および楠家重敏・橋本かほる・宮崎路子訳「バード 日本紀行」(雄松堂出版)の内容を元にしたものであることが言及されています。

思いがけない招待

イザベラは六郷(美郷町)で「社会見学」を行った後、再び神宮寺(大仙市)に向けて出発しました。人力車で移動中のイザベラが休憩を取っていたところ……

 人力車に乗って六郷を出てから間もなく路傍の茶屋で休んだが、そこで脚気が流行していたときに院内インナイに滞留していた若い医師に会った。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.247 より引用)

院内でのエピソードは「第二十五信」で詳述されています(「日本奥地紀行」を読む (118) 院内(湯沢市) (1878/7/19))が、今度は久保田(秋田)に帰る途中で「おや、また会いましたね」となったようです。

この若い医師はイザベラに勤務先(病院)に来るように招待するとともに、ワールドクラスの有能さと抜け目のなさを持ち合わせた伊藤に重大な情報をリークします。

彼は伊藤に、「西洋料理」を食べられる料理店のことを話した。これは楽しい期待で、伊藤はいつも私に、忘れないでくれ、と念を押している。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行平凡社 p.247 より引用)

旅の道中でこんなチャンスは滅多に無いですからね。しかもこの先は「蝦夷地」に向かうのですから、「西洋料理」どころか専業の「料理店」すら存在するかどうかも怪しいですし……。

伊藤は通訳をしているくらいですから、当時の日本人としては欧米への理解も深かったと思われますが、洋食好きだったのでしょうか。実は単に「料理店」の料理が食べたかっただけだったりして……。

ばかげた事件

単なる「休憩」だった筈が思わぬ形で「西洋料理店」の情報をゲットして、実はウハウハ(死語?)だったと思われるイザベラですが、移動中に囚人を連行した警察官に遭遇します。警察官に遭遇した車夫の取った行動は……?

私の車夫は、警官の姿を見ると、すぐさま土下座して頭を下げた。あまり突然に梶棒を下げたので、私はもう少しで放り出されるところだった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)

「梶棒」という言葉は個人的に耳慣れないものですが、要は人力車の前の棒のことのようです。人力車は車輪が左右に一輪ずつしか無いので、梶棒を下げると前傾姿勢になってしまうのですが、車夫がいきなり梶棒を下げてしまったので、イザベラは前方に放り出されそうになってしまいます。

車夫が慌てて土下座した理由ですが、もしかしたら服を着ないで人力車を走らせていたから、だったのかもしれません。

彼は同時に横棒のところに置いてある着物を慌てて着ようとした。また人力車を後ろで引いていた若い男たちも、私の車の後ろに屈んで急いで着物をつけようとしていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.247 より引用)

イザベラは「車夫が畏れ慄いていた」のを見ていますが、これは処罰を恐れていたと考えることもできます。慌てて服を着たのは、少しでも心象を良くしようと考えたのでしょうか。

警官の礼儀正しさ

イザベラは、すっかり萎縮してしまった車夫の姿を次のように記しています。

スコットランドの長老教会の祈躊の中で聞く奇妙な文句「両手で口をおおい、ひれ伏して口を地面につけよ」そのままの姿であった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

土下座しながら警察官に申し開きを行う車夫の姿があまりに気の毒だったからか、イザベラは助け舟を出すことにしました。

その日はたいそう暑かったので、私は彼のために取りなしてやった。他の場合なら逮捕するのだが、外国人に迷惑をかけるから今日のところは大目に見よう、と警官は言った。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

イザベラの「介入」は効果覿面だったようで、車夫は無罪放免を勝ち取ります。服を着ずに人力車を走らせることがどの程度の罪に相当するのかは不明ですが、あっさりと外圧に屈した感がするのと、恣意的な摘発基準の変動があったという点は少々モヤッとしますね……。

イザベラの車を引いていた年配の車夫は、流石にしょんぼりしたままだったようですが……

しかし道路を曲がって、警官の姿が見えなくなると、二人の若い車夫はたちまち着物を放り出し、大声で笑いながら、梶棒をとり全速力で駆け出したのである!
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

あははは(笑)。懲りないですね!

慰めのない日曜日

イザベラ一行はようやく神宮寺(大仙市)に到着します。これは予定通りの行動なのかと思ったのですが……

 神宮寺シンゴージに着くと、私は疲れて、それ以上進めなかった。低くて暗く、悪臭のする部屋しか見つからず、そこは汚い障子ショージで仕切ってあるだけで、ここで日曜日を過ごすのかと思うと憂鬱であった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

……どうやら疲労困憊だったイザベラがギブアップした、というのが真相だったようです。まぁ慣れない着物を着たりしたので、いつも以上に疲れが出たのかもしれません。

片側からは、黴の生えた小庭が見え、ぬるぬるした藻類が生えていた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

これは……苔むした趣のある庭園だったのかもしれませんが、イザベラ姐さんの筆致にかかればコテンパンですね……。もっともイザベラが「小庭」を苦々しく見ていたのは、隣家の住人が「異人さん」をひと目見ようと出入りしていたから……だったようですが。

イザベラが「憂鬱な日曜日」を過ごすことになった宿ですが……

暗くならないうちから蚊が飛びまわり、蚤は砂蠅のように畳の上をはねまわった。卵はなくて、米飯ときゅうりだけであった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

もはや毎度おなじみとなった感がありますね。イザベラが毎回超人的な引きで「限界宿」を引き当てていると考えるのは流石に無理があるので、当時の一般的な宿屋はこんなレベルだった、と考えるべきなのでしょう。

日曜日の朝五時に外側の格子に三人が顔を押しつけているのを見た。夕方までには障子は指穴だらけとなり、それぞれの穴からうす黒い眼が見えた。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

ふわー……。イザベラはこれまでも繰り返しプライバシーの欠如を訴えていましたが、これまた相変わらず……ですね。

一日中、静かな糠雨で、温度は八二度。暑さと暗さ、そして悪臭はとても堪らなかった。
イザベラ・バード/高梨謙吉訳「日本奥地紀行」平凡社 p.248 より引用)

「82 度」は「28 度」の誤植ではなく、「華氏 82 度」らしいのですが、これは摂氏 27.778 度に相当するとのこと。……ほぼ 28 度でしたね(汗)。

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宗谷本線各駅停車 (36) 「東六線・和寒」

宗谷本線は剣淵駅まで南南西に向かって走っていましたが、剣淵駅の南で南東に向きを変えました。旭川行き 328D は快調に速度を上げて、剣淵川を一気に渡ります。

宗谷本線は天塩川の渡河を頑なに避けていましたが、剣淵川については忌避する対象ではなかったのか、剣淵駅の前後で 2 度も架橋しています。

並行する国道 40 号(に相当する道路)は剣淵川の東側をキープしていて、道央自動車道もほぼ同じルートを踏襲していることを考えると、鉄道だけコスト増になりそうな架橋ルートを選択したのがかなり謎に思えてきました。剣淵は「屯田兵村」だった筈なので、それがプラスに働いたのでしょうか。

328D は剣淵川を渡った後も、防風林の中を快調に飛ばしていましたが……あれっ、停まってしまいましたね。停止位置目標らしきものが見えますが……

東六線駅(W39・2021/3/13 廃止)

白々しい書きっぷりですが、旭川行き 328D は「東六線駅」に到着しました。ホームと駅舎が進行方向左側にあるので、駅らしきものが撮影できたのは、先程の停止位置目標とこの駅名標くらいで……

残念ながら写真撮影はできませんでしたが、この東六線駅のホームもウッドデッキ構造だったとのこと。1956 年に仮乗降場として設置された後、1959 年には早くも駅として昇格を果たしています。

宗谷本線には 1955 年から 1959 年にかけて設置された仮乗降場が非常に多いのですが、これは蒸気機関車が牽引する客車列車よりも加速・減速に優れたディーゼルカーの導入により、所要時間をあまり損なうことなく停車駅を追加できるようになったから、なのでしょうね。

もっとも停車駅が増えることによって使用する燃料も増加するのですが、当時はその辺は割と無頓着だった(あるいは利用者増で回収できる計算だった)のかもしれません。やがて稠密な駅間は利用者が減少するとともに鉄道事業者の首を絞めることになってしまいます。

面白いのが東六線駅のようにすぐに駅に昇格したケースもあれば、北剣淵駅のように JR が発足するまで仮乗降場のまま据え置かれたケースもあるという点で、両者の違いはどこにあったのでしょう。何の根拠もない推測ですが、業務委託先が存在した場合は駅に昇格しやすかった……と言ったような実務的な話だったのでしょうか。

「絵になる駅」だったのですが

東六線駅はあっさりと駅に昇格したところまでは順風満帆だったのかもしれませんが、他の駅と同様に利用者は減少を続け、一日平均乗車人員が 10 人を下回る「極端にご利用の少ない駅・10 名以下」部門にノミネートされてしまいます。

剣淵町は北剣淵駅とともに東六線駅の廃止も容認したため、ともに 2021 年 3 月 13 日に廃止されてしまいました。防風林の中を一直線に伸びる線路の脇にちょこんと存在する「絵になる駅」だったのですが……

和寒町

328D は剣淵川の支流である「六線川」を渡って和寒町に入りました。和寒町に入ってからは防風林を見かけなくなりましたね。

こちらは「防風林」というよりは「鉄道林」というか、単なる線路脇の林なのでしょうか。防風林と言うにはちょっとスカスカな感じがするので……。

「十四線」の踏切を過ぎると、間もなく和寒駅です。

この「十四線」は「東六線」から数えて 8 本目の道路なので、「東六線」の北にあと 5 本道路があることになるのですが、地図で見た限りでは「一線」および「基線」に相当する道路が見当たりません。剣淵町の美羽烏神社のあたり(剣淵橋の近く)に「基線」に相当する道路がありそうなものですが……。

和寒駅(W38)

車内に動きがありました。どうやら高校生っぽいお客さんが大勢下車するようです。

駅前の駐車場と跨線橋らしきものが見えてきました。この跨線橋は駅のものではなく、線路の東西を往来するための歩道橋のようです。跨線橋は別にあるのですが、ちょっと勿体ない感じもしますね。

和寒駅に到着しました。和寒駅は 2 面 3 線の国鉄型配線に近い構造で、駅の南側のポイントが高速で通過できるようになっているようにも見えます。剣淵駅も似たような感じだったのですが、厳密な「一線スルー」構造では無いのかもしれません(ただポイント通過時に大幅な減速を必要としないと思われるので、一線スルー構造に近い効果は得られているのでしょう)。

普通列車同士の列車交換

旭川行き 328D は本線である 2 番線に入線しました。Wikipedia を見た限りでは、和寒駅は方向別でホームを使い分けているようで、旭川方面の列車が駅舎に近い 1 番線に入ることは無さそうに見えます。

1 番線に列車が入線してきました。旭川からやってきた 329D のようです。時刻表をちらっと眺めてみた感じでは、和寒駅で列車交換を行うのは一日 3 回のようで、うち 2 回は特急「スーパー宗谷」と快速または普通の交換なので、普通列車同士の交換はこれが唯一のようですね。

そして今頃気づいたのですが、和寒駅は特急停車駅だったのでした。「市の代表駅」はあっても「町の代表駅」は無かったと思いますが、宗谷本線の沿線の町を代表する駅で特急が停車しないのは「比布」と「剣淵」だけなのかもしれません(以前は「風連」もそうでしたが、名寄市と合併してしまったので)。

本場の味!本場の味!本場の味!

和寒駅の駅舎も、JR 北海道が発足した直後の 1988 年に改築されています。バブル経済華やかなりし頃ですが、今から思えば千載一遇のタイミングだったように思えてしまいます。

もちろん「本場の味」はサッポロビールなんですが、例によってブレが酷いですね……(すいませんすいません)。

そして更にブレが酷い(というかピントが合ってない)写真をお目にかけますが、この写真内だけで「本場の味」が 4 つも確認できます。

撮影できただけで、駅舎に 2 つ、駅舎横の電柱に 1 つ、そして 1 番のりばの屋根柱に 3 つと後ろの電柱に 1 つ、2 番のりばの電柱にも 1 つあり、「本場の味」が最低でも 8 つ存在するということになりますね。さすがは特急停車駅、格の違いを見せつけたと言ったところでしょうか(どこが)。

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宗谷本線各駅停車 (35) 「北剣淵・剣淵」

旭川行き 328D は「犬牛別川」を渡って剣淵町に入りました。気がつけば稚内を出発してから 6 時間 20 分以上経過しているんですよね……。まぁ名寄で 2 時間 15 分ほど足踏みもしているので、乗車時間は 4 時間強ということになります。あれ、意外と速い?

車窓には、なぜか植林中と思しき「林の予定地」が見えます。剣淵町内の宗谷本線は線路の左右にある立派な防風林で守られているように見えますが、ここはこれまで林では無かったのか、それとも世代交代なんでしょうか?

よく見てみると、防風林と言うにはかなり手薄な場所もあるようです。手前に伐採された幹が見えるのは、線路に近すぎるということで伐られてしまったのでしょうか。

北剣淵駅(W41・2021/3/13 廃止)

実はこの防風林の中に「北剣淵駅」がありました。久しぶりに進行方向左側(線路の東側)にホームがあるので、駅名標を撮影するのが精一杯でした。

北剣淵駅は 1959 年に仮乗降場として開設され、1987 年に JR 北海道が発足したタイミングで駅に昇格しました。国鉄時代はずっと仮乗降場のままだった、生粋の仮乗降場と言える存在です。

この北剣淵駅も例によって例のごとく、一日平均乗車人員が「1 名以下」という、「極端にご利用の少ない駅」としてリストアップされていました。2016 年の資料では、名寄以北では 32 駅(稚内駅を含み、名寄駅は含まず)中 14 駅が「1 名以下」とされていましたが、名寄以南は 20 駅(旭川駅を含み、名寄駅は含まず)中 3 駅のみが「1 名以下」で、北剣淵駅は見事にその中の 1 つにノミネートされたことになります。

「防風林の中に佇む仮乗降場」というのは中々絵になるロケーションですが、実際にこの駅でミュージックビデオのロケが行われたこともあったのだとか。そんなこんなで「ちょっと惜しい駅」だった北剣淵駅ですが、残念ながら 2021 年 3 月 13 日に廃止されてしまいました。

突然のアンダーパス

328D は北剣淵を出発して南に向かいます。ここも防風林の「植林」が行われているようですね。

……と思っていたら、突然道道 984 号「温根別ビバカルウシ線」のアンダーパスが見えてきました。いきなり町中に入った感がありますが、間もなく剣淵駅です。

剣淵駅(W40)

剣淵駅の構内に入りました。……あっ、いきなり「本場の味」が!(ピントが合っていませんが)

剣淵駅に到着しました。剣淵駅は 1900 年 8 月に官設鉄道天塩線が和寒から士別まで延伸した際に開設された駅ですから、2016 年時点で 115 歳ということになります(!)。

駅舎は JR 北海道が発足した翌年(1988 年)に改築されたものです。バブル経済真っ盛りの時期に改築された……ということになりますね。

駅の構造は 2 面 2 線で列車交換可能な構造です。一線スルー化が行われていて、駅舎側(西側)が本線で東側が待避線になっているようです。

328D は剣淵駅で列車交換を行わないので、待避線ではなく駅舎側の本線に入線しました。跨線橋を使わずに済むのであれば、それに越したことは無いですからね。

あらこんなところに「本場の味」

ところで、跨線橋の脇にも「本場の味」が見えていましたが……

やはりと言うべきか、駅名標の横の電柱にも「本場の味」が。

しかもよく見ると駅舎は「本場の味」「本場の味」「本場の味」のハットトリックを決めていた上に……

最初に紹介した、駅の北側の電柱にも……

剣淵駅には少なくとも「本場の味」が 6 つも存在することが確認できたわけですが、跨線橋の先には待避線と 2 番のりばがあるわけで……。この駅には一体いくつの「本場の味」が存在するのか、ちょっと気になるところです。

「絵本の里けんぶち」

駅名標の隣は「名所案内」が並ぶ場合が多いかと思いますが、剣淵駅では一面全てを「絵本の里けんぶち」の案内に割いていました(例によってピントが合っていませんが)。

剣淵駅の駅舎は線路の西側にありますが、線路の東側には「JA 北ひびき 剣淵馬鈴薯貯蔵倉庫」があるとのこと。Google マップには「カルビー」との付記があるのですが、カルビー専用の倉庫なんでしょうか。

なお、駅の南西側にも農業倉庫と思しき建物があり、貨物ホームらしき石組みも見えます。既に線路は剥がされていますが、かつては貨車の引込線が存在したように見えます。

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宗谷本線各駅停車 (34) 「下士別・士別」

多寄駅を出発した旭川行き 328D は、まっすぐ南に向かって疾走中です。

この日は 3 連休明けの金曜日ということもあり、車内には学生さんが多く乗車していました。まぁ、4 人掛けのボックスシートを 1 人で専有できる程度の混み具合とも言えますが……(通学で利用する学生さんはデッキ寄りのロングシートに集まっていることも多いですね)。

下士別駅(W43・2021/3/13 廃止)

多寄駅からまっすぐ南に向かって走ること 3~4 分ほど、328D は減速して停車しようとしていました。集会所のような建物が見えてきましたが……

むむっ、どうやら「下士別駅」に到着したようです。集会所のように見えた建物が駅舎で、隣には自転車置き場と思しき建物も見えます。こちらの自転車置き場ですが、屋根のみならず三方向が壁で囲まれているので、風や雪の吹き込みが最小限に抑えられそうな構造です。利用者への思いやりが感じられる構造ですよね。

そして駅舎に掲げられた「しもしべつ」の額が、実にいい味を出しています。

ホームはプレコン製

下士別駅は 1955 年に仮乗降場として設置された後、4 年後の 1959 年に駅に昇格しています。

ただ、ホームはウッドデッキ構造ではなく「プレキャストコンクリート製」とのこと。「プレキャストコンクリート」は「プレコン」とも略されるそうですが、工場で製造されたコンクリート製品……なんですね。U 字溝の部材なんかも「プレコン」ということになるのでしょうか。

この下士別駅ですが、やはりと言うべきか、一日の平均乗車人員が 10 名以下の「極端にご利用の少ない駅」だったようで、残念ながら 2021 年 3 月 13 日で廃止されてしまいました。いい佇まいの駅だっただけに惜しいですね……。

旭川行き 328D は再び速度を上げて、次の「士別駅」に向かいます。士別駅の手前で「天塩川」を渡るのですが、宗谷本線が天塩川を渡るのはこれが最初で最後なんですよね(なのに写真が無いという……)。

士別駅(W42)

328D は 17:11 に士別駅に到着しました。……なななっ、なんですかこの近代的なホームは!(他の駅との違いに動揺を隠せない) ホームは石垣ではなくプレコン(覚えたらしい)のブロックで固められていて、その上には立派な屋根が……。「羊のまち 士別へようこそ!」と描かれた看板があったり、これまでの駅とは比べ物にならないくらい「都会っぽい」佇まいですね。

士別駅は 2 面 3 線の配線で、駅の南側には引込線が見えます(豊清水駅と似てますね)。一見、国鉄型配線のようにも見えますが、高速化を目的とした一線スルー工事が行われていて、駅舎が隣接する 1 番線が待避線で、跨線橋の先にある 2 番線が本線扱いのようです。

この構造は風連駅と似ていますが、士別駅は特急停車駅ということもあってか、旭川方面の列車は 1 番線を使用し、稚内方面の列車は 2 番線(一部は 3 番線)を使用する運用になっているようです。士別駅で対向列車と交換を行わない列車もあるので、そういった列車は全て 1 番線を使用すれば、跨線橋を渡らずに済みそうなんですけどね(もしかしたら構造上 NG なのかもしれませんが)。

言わずもがなですが、「本場の味」はサッポロビールですね。

逃げるどころかまだ来てないし

旭川行き 328D は定刻通りに士別駅を出発しました。旭川行きなので 1 番線からの発車です。

士別市内を流れる「チューブス川」を渡ります。去りゆく夏を惜しむには時期的に早すぎた感が否めません(何の話だ)。

剣淵川

剣淵川を渡ります。鉄橋とトンネルは建設費を圧迫する要因となるため、宗谷本線は天塩川を渡る回数をとにかく最低限に抑える形でルート選定が行われたように見えます。

ただ天塩川の支流である剣淵川については「わざわざ忌避するほどではない」と見られていたのか、この橋を含めて 2 箇所に架橋されています。

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宗谷本線各駅停車 (33) 「瑞穂・多寄」

旭川行き 328D は風連駅を出発して、次の「瑞穂駅」に向かいます。並走する国道 40 号を走行中の車は、日本の公道における最速車として名高い Probox でしょうか(それとも同型車の Succeed でしょうか)。

瑞穂駅(W45)

328D は速度を落として、間もなく停車しようとしています。何やら小ぶりな建物が見えてきましたが……

どうやらこの建物が瑞穂駅の待合室のようです。隣には屋根付きの自転車置き場も見えますね。

この「瑞穂駅」は 1956 年に仮乗降場として設置され、1987 年に JR 北海道が発足した際に駅に昇格しています。ホームがウッドデッキ構造なのは元・仮乗降場ならではでしょうか。

「瑞穂駅」のホームは一両分しか無いらしく、そのことに起因するかどうかは不明ですが、停車する列車は一日 4 往復のみとのこと。

白地に青の「本場の味」!

地元の住民によって設置された待合室には、シンプルでちょっと懐かしいデザインの「瑞穂駅」の額が。

そしていつもの「紺地に白」ではなく「白地に青」という斬新なカラーリングの「本場の味」も(!)。これは相当レア度が高そうですね。

駅の南側には「三十一線」の踏切があります。名寄市の「名寄公園」の北を東西に走る「公園通」が「十五線」とのことで、では「基線」はどこなんだろう……と遡ってみたのですが、それらしい道路が見当たりません。

計算上はかつての「智東駅」の北あたりを通ってそうなのですが、智東駅のあたりは殖民区画に基づく道路が東西南北に広がってなかったような気がするんですよね。どこから数えて 31 本目の通りなのか気になりますが、気にしてもしょうがない気もしてきました(ぉぃ)。

それにしても、この「瑞穂駅」、小さいながらも待合室がある上に、屋根のついた自転車置き場まで用意されていて、地元の人の駅への愛情がもの凄く感じられます。この駅も一日の乗車人員が 10 名以下の「極端にご利用の少ない駅」のひとつですが、2021 年時点では無事存続しています。

間もなく「多寄」

宗谷本線は、かつての風連町域(現在は名寄市南部)では東西南北の区画を無視して斜めに進んでいましたが、瑞穂駅からは再び真南に向かって進みます。国道 40 号も、120 m ほど離れているものの再び並走することになります。

328D は再び速度を落として停車しようとしていますが……おっ、材木が山積みですね! ここは「多寄」ですが、「タヨロ」という地名は tay-oro で「林のところ」と解釈できるのが面白いところです(単なる偶然なんでしょうけど)。

駅の北側には、割と新しそうな農業倉庫が見えます。天塩川の西側にある「日向ひなた温泉」はスキー場やキャンプ場も併設されていて、士別市のイチ推しスポットみたいですね。

駅のすぐ北側に踏切がありましたが、この道は「三十六線」のようです(まだ続いていたのか!)。

多寄駅(W44)

「多寄駅」に到着しました。この駅は 1903 年に官設鉄道天塩線が士別から名寄まで延伸した際に設置された、めちゃくちゃ歴史の長い駅のようです。

現在の駅舎は 1986 年に無人駅となった後、1988 年に改築されたものとのこと。「JR 多寄駅」の文字の配置に違和感が無いなぁと思ったのですが、JR 北海道が発足した翌年に改築されたものだったのですね。ホームから直接「お手洗」に行けるというのは親切な構造ですね。

現在の多寄駅は 1 面 1 線の棒線駅ですが、かつては 2 面 2 線で列車交換可能な構造だったようです。また現在は駅の北側に「三十六線」の踏切がありますが、かつては「三十六線」が「駅前通り」となっていて、多寄駅が「三十六線」を分断していたとのこと。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

「三十六線」の東西分断を解消する方法として「駅を移設する」という奇策が実行に移され、その際に築 11 年だった(現在の)駅舎も建物ごと曳屋されたのだそうです。ホームも作り直されたとのことですが……確かに比較的新しそうに見えますね。

そう言われてみれば、この駅名標(のフレーム)も新しそうなものに見えます。

標準スタイルの「本場の味」

お隣の「瑞穂駅」には(おそらく)レアな「リバーシブル駅名標」がありましたが、多寄駅の「本場の味」は標準的な「紺地に白」のものです。

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宗谷本線各駅停車 (32) 「東風連・風連」

旭川行き 328D に乗車して、各駅停車の旅を再開します。名寄までの車輌は転換クロスシートでしたが、ここからはボックスシートの車輌です。

名寄駅を出発すると、列車はしばらく道道 538 号「旭名寄線」に並行して真南に向かって走ります。名寄高校の前を通り過ぎ、建物の数がぐっと少なくなりました。

東風連駅(W47)

線路が右にカーブするとともに、328D が速度を落としました。踏切が見えてきましたが、これまで並走してきた道道 538 号の踏切です(道道 538 号は引き続き真南に向かうので、どこかで線路を横断する必要がありました)。

踏切のすぐ先にある「東風連駅」に到着しました。この駅は 1956 年に開業していますが、仮乗降場ではなくいきなり駅としてスタートしています。

1956 年開業と言う割には随分と新しそうに見えるのですが、どうやら 1999 年にホーム(と駅舎)を移設したとのこと。この駅の所在地はかつての風連町(現・名寄市)で、駅の南側の住民の便を考慮して、ホームは線路の南東側に設けられていました。

ただ、現在の利用者の殆どが、駅から 1.5 km ほど北にある「名寄高校」の生徒とのこと。それであれば、線路の北側にホーム(と駅舎)があったほうが、踏切で線路を横断する必要もないので良いだろう……という判断があったのか、ホームと駅舎を移転するに至ったようです。

特筆すべき点として、この駅は驚くべきことに、例の「極端にご利用の少ない駅」に含まれていません。稚内から名寄までを見ると、「極端にご利用の少ない駅」に含まれないのは「稚内」「南稚内」「豊富」「幌延」「天塩中川」「音威子府」「美深」「名寄」の各駅で、これらは全て「特急停車駅」です。

もっとも名寄以南では「特急停車駅」以外も「極端にご利用の少ない駅」に該当しない駅がいくつか存在するので、名寄以北では「特急停車駅」に限定されるのは一日 3 往復という列車本数が影響しているとも言えそうです。ただこれは「卵が先か鶏が先か」という問題でもあるので、因果関係を単純に図式化することもできないですが……。

「東風連」には特急が停車しないどころか、一日 8 往復の普通列車の半数が通過しています。それにも拘らず一日平均乗車人員 10 名以上をキープできているのはひとえに名寄高校の生徒のおかげ……ということのようで、「それだったら」ということで名寄市が駅の移設を要望し、JR 北海道も移設に合意したとのこと。東風連駅は 2022 年 3 月(予定)に北に移転して、駅名も「名寄高校前」に改められる予定のようです。

この駅名標が見られるのも、あと数ヶ月ということになりそうですね。

風連駅(W46)

東風連駅を出発して 4 分ほどで、立派な農業倉庫が見えてきました。間もなく「風連駅」に到着です。

風連駅は 2 面 2 線の列車交換可能な構造で跨線橋もあります(特急停車駅以外では初めてかも)。跨線橋の下には何故か自転車が置かれているのですが、自転車置き場のようにも見えないですし……謎ですね。

風連駅に到着です。随分とモダンな駅舎ですね。

風連駅は 2 面 2 線の構造ですが、今風の一線スルー構造に改良されていて、駅舎のある側の線路が「待避線」の扱いのようです。すれ違う列車が無い場合は、旭川方面に向かう列車も(駅舎に近い)待避線に入るみたいですね。

風連駅のあたりも殖民区画に基づいて道路が建設されていて、道路は東西または南北に向かって伸びています。ところが宗谷本線は「斜め 45 度」に近い角度で風連の市街地を横切っていて、国道 40 号も宗谷本線に引きずられるように似たような角度で通過しています。

面白いことに、風連駅の存在する区画のみ、風連駅に直交する駅前通りを中心にした碁盤の目が形成されています。このレイアウトのほうが国道 40 号とも直交できるので、何かと便利だった……ということなんでしょうね。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

風連駅では、無事「本場の味」もゲット?できました。

駅名標も無事撮影することができました。どの駅でもこれくらい安定して撮影できれば良いのですけどね。

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