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アイヌ語地名の傾向と対策 (721) 「シシャモナイ滝・オブカル石」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

シシャモナイ滝

sisam-o-nay
日本人・そこにいる・川

 

(典拠あり、類型あり)

積丹町から国道 229 号を南下すると、「積丹トンネル」で神恵内村に入り、その後「大天狗トンネル」「西の河原トンネル」(さいの──)と長いトンネルが連続します。「シシャモナイ滝」は海に注ぐ滝川ですが、国道 229 号は滝の下を「西の河原トンネル」で抜けているため、目にすることはできません。

ちなみに、積丹町沼前と神恵内村川白の間の国道が開通したのが 1996 年とのことで、それまでは船で行き来するしか方法がなかったとのこと。大正時代の陸軍図を見ると、南側のオブカル石から山越えの道があったようですが、もちろん車輌が通行できるレベルのものでは無かったようです。この道も「西の河原」までで、そこから北には本当に道が無かったようです。


「東西蝦夷山川地理取調図」には「シヽヤモナイ」という川?が描かれていました。また西蝦夷日誌には次のように記されていました。

シユリ〔サ〕モナイ(瀧)和人西院川原といふ。舟を寄るに小石を積置けり。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)時事通信社 p.127 より引用)

「再航蝦夷日誌」には次のようにありました。

其穴幅廻りて
     シサモナイ
此処ニ滝有。又沙浜少し有り。本名ヲノチシと云よし也。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻吉川弘文館 p.609 より引用)

少し気になる記述が増えていますが、「東西蝦夷山川地理取調図」をよーく見てみると、「シヽヤモナイ」の隣(北側?)に「ヲツチシ」と描かれていました。これは ok-chis で「ぼんのくぼ」、すなわち「峠」なのかもしれません。確かに「シシャモナイ滝」の北隣に標高 30 m ほどの ok-chis があるように見えます。

また「竹四郎廻浦日記」にも次のようにありました。

     シユシヤモナイ
 此処相応の滝也。岩壁峨々として目覚敷処なりと。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.384 より引用)

いやー、これだけブレ無く情報が揃うのも久しぶりでしょうか。もちろん永田地名解にも記載が見つかりました。

Shisham-o-nai  シ シャモ ナイ  日本人ノ澤 此處ニ岩穴アリ惡夷栖息シ人肉ヲ食ヒシ處ナリト「アイヌ」云フ蓋シ日本人死シタル澤ト云フ義ナルベシト云フ

うーむ。どこまでが脚色でどこからがファンタジーなのか良くわかりませんが(ぉぃ)、とりあえず sisam-o-nay で「日本人・そこにいる・川」と読めそうですね。

西の河原に積み上げられた石の伝説

そういえば「西蝦夷日誌」には次のような記載があったのでした。「小石を積置けり」に続くのですが……

近比(ちかごろ)箱館稱名寺の北崖といへる僧、小庵を立ると。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.127 より引用)

「シシャモナイ滝」ではなく、その北にある「西の河原」の話ですが、函館の寺のお坊さんが小さな庵を建てたとのこと。松浦武四郎はその庵に泊まった際に、「西の河原に積み上げられた石を崩しておくと、翌朝には元通りになっている」という奇怪な現象があることを耳にします。そして実際に石を崩してみたところ……

余は丙午〔弘化三年〕の年爰に一宿せし時、水夫の話とて、此石を崩して置時は、夜の間に如前日積あると語るに、余試し事あれども、人の信をさます事故記さず。
松浦武四郎・著、吉田常吉・編「新版 蝦夷日誌(下)」時事通信社 p.127 より引用)

「人の信をさますこと故記さず」って、事実上書いちゃってるじゃありませんか(笑)。

オブカル石

op-kar-us-i
槍・作る・いつもする・ところ

 

(典拠あり、類型あり)

国道 229 号の「積丹トンネル」「大天狗トンネル」「西の河原トンネル」を南に向かって抜けた先がサブカル……じゃなくて「オブカル石」です。近くを「オブカルイシ川」という川も流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヲフカルウシ」という地名?が描かれています。また「西蝦夷日誌」には「オフカルシ(小川)」とあります。

「再航蝦夷日誌」には次のように記されていました。

     ヲフカル石
此処次ニ図する如き怪石有。凡一丈。高三丈も有るべし。
松浦武四郎・著 吉田武三・校註「三航蝦夷日誌 上巻」吉川弘文館 p.608 より引用)

us-i が「石」に化けるケースはちょくちょくありますが、ここの場合は実際に奇岩があったということのようですね。

「竹四郎廻浦日記」にはちょっと変わった形で記録されていました。

     テ(チ)フカルシモシリ 島也。
松浦武四郎・著 高倉新一郎・解読「竹四郎廻浦日記 上」北海道出版企画センター p.384 より引用)※ カッコ内の註は解読者による


実際に「オブカル石」にも島があるため「島也」という記載は決して間違いでは内のですが、「東西蝦夷山川地理取調図」によると、現在の「ジュウボウ岬」の陸繋島のあたりの地名として「チフカイモシリ」と描かれています。解読者がこの「チフカイモシリ」と混同した可能性もありそうですね。そして「フカルシモシリ」が「フカルシモシリ」だったと考えると全てがクリアになりそうです。

肝心の「オブカル石」の意味ですが、永田地名解には次のように記されていました。

Op kar'ushi  オㇷ゚ カルシ  槍ヲ作ル處 往時權力猛キ酋長アリテアイヌ等ノ槍長サ三尋以上ヲ用ユルヲ禁ジタル處ナリト云フ
(永田方正「北海道蝦夷語地名解」国書刊行会 p.106 より引用)

どうやら op-kar-us-i で「槍・作る・いつもする・ところ」と考えて良さそうですね。色々と細かい説明がありますが……若干トリビア感があるような気も。

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