やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。
老者舞(おしゃまっぷ)
知方学の 2.4 km ほど西方に位置する地名で、「釧路町の難読地名コレクション」その 3、ということになりそうですね(#1「重蘭窮」、#2「知方学」)。
「北海道地形図」(1896) には「オエサマㇷ゚」と描かれています。「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) には「ヲコシヤシヤマフ」と描かれているものが該当するでしょうか……? 地理院地図には「おしゃまっぷ」とルビが振られていますが、Mapion では「おしゃまっぽ」となっています。「舞」は「まい」あるいは「まう」なので「っぽ」というのは奇妙な感じもしますが……。
不分明に候
加賀家文書「クスリ地名解」(1832) には次のように記されていました。
ヲヱシャムマム 不分明に候。
え……。そ、そんなぁ……。
「初航蝦夷日誌」(1850) にも「ヲヱシヤムマヱ」と記録されていますが、残念ながら地名解は記されていません。
ふとももが横に……?
「午手控」(1858) には次のように記されていました。
ヲヱサマフ
本名ヲミサマフ。ヲミは尻を云、サマフは横に臥たると云事。昔し鯨がよりし時神様多くより、よこに伏したと云り
「ヲミは尻を云」というのは少々謎ですが、改めて「地名アイヌ語小辞典」(1956) を眺めてみると om, -i で「ふともも」を意味するとのこと。sama は「横になる」なので、「ふとももが横になったところ」と解釈できたり……するのでしょうか?(誰に聞いている)
サケ・マスの産卵場?
山田秀三さんの「北海道の地名」(1994) には次のように記されていました。
老者舞 おしやまっぼ
おっと、いきなり「っぽ」で来ました。やはりと言うべきか、昔は「おしゃまっぽ」という読みが一般的だった可能性が出てきましたね。
東蝦夷日誌はヲエチヤンマフ, 明治 30 年 5 万分図はオエサマㇷ゚と書いたが,解の記録は見ない。形だけからだとオ・イチャン・オマ・ㇷ゚「川尻に・鮭鱒産卵場・ある・もの(川)」とも聞こえるが,訛った形らしいので,うっかり解がつけられない。
ふむふむ。「東蝦夷日誌」(1863-1867) の記録をもとに o-ichan-oma-p と考えたようですが……。
河口が横になっている?
更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」(1982) には次のように記されていました。
老者舞(おしゃまっぶ)
釧路町海岸。思わず噴き出したくなる当て字である。
吹き出したくなるのは……とても良くわかります。もちろん続きがありまして……
近くの小川の名で、アイヌ語オ・サマッキ・プで川尻の横になっている川の意。
ほー。これはまた随分と穏当な解が出てきましたね。河口が沿岸流によって堆積した砂に捻じ曲げられるのは良くある話で、そういった川を o-samatki-p で「河口・横になっている・もの」と呼んだ……という可能性も十分に考えられます。
倉の形をした岩山!?
ただ、釧路町史には更に異なる解釈が出ていました。
オシャマップ(老者舞) 川尻に倉の形をした岩山があるところ
今度は「えー」と口走りたくなる解ですが……
アイヌ語で解釈すると「オ(川尻)サマッキ(横たわっている。)プ(倉<のような形>)となり、シュマ(岩)マップ(倉のような山)」と解すことになり、川尻に倉のような形をした岩山のある所と表記する。
えー……(結局口走ったな)。それはそうと、この文章、よく読んでみると意味が良くわからないような……。特に「マップ(倉のような山)」については意味不明な感じが……。
河口に岩山がある川?
鎌田正信さんの「道東地方のアイヌ語地名」(1995) では、山田秀三さんの「オ・イチャン・オマ・ㇷ゚」という解を引用した上で……
川は砂利層で鮭鱒が産卵に入りそうな川ではある。
……と肯定的なフォローをしつつ、次のように続けていました。
昆布森地名考は「老者舞(オシャマップ)川尻の倉のような岩のある所、オ(川尻)シュマ(岩)マㇷ゚(をもつ所)となるが語尾をマップにすれば(倉のような山)を意味するもので表記の解釈をとった」と書いた。
この「昆布森地名考」は、昆布森漁業組合編「昆布森海岸の地名考」(1973) とのこと。「釧路町史」の引用文献には「郷土史地名考(昆布森沿岸の地名考) 佐藤清八」とありますが、これは同一のものか、あるいは内容を引き継いだものかもしれません。
更に続きがありまして……
確かに川尻には大黒岩と呼ばれている大きな岩がある。
この「大黒岩」は地理院地図にも描かれているのですが、河口のすぐ脇に立派な岩が鎮座しています。鎌田さんの著書には写真も掲載されているのですが、これは「地名にならないほうがおかしい」と思えるレベルでインパクトのあるものです。
松浦東蝦夷日誌は「ヲエチヤンマフとして(岩)」をさしている。オ・エ・サン・オマ・プ「川尻に・頭が・浜に出ている・もの(岩)」の意でなかろうか。
あー、これは肯定せざるを得ない解ですね。o-{e-san}-oma-p で「河口・{岬}・そこにある・もの」と読めそうです。「地名アイヌ語小辞典」は e-san が「頭が・浜へ出ている」であるとしているので、鎌田さんは「小辞典」の解釈を流用したようにも見えます。
河口が岩の傍にある川??
いや、もしかすると o-e-sam-oma-p で「河口・頭(岩)・傍・そこにある・もの(川)」なのかもしれません。文法的にこういった解釈が可能かどうか不安もありますが……。
改めて「午手控」の「本名ヲミサマフ。ヲミは尻を云、サマフは横に臥たると云事」という解を検討してみると、「ヲミ」は o-mu で「河口・塞がっている」だった可能性も考えられるでしょうか。
ただそれだと sam が繋がらないような気がするので、o-mu-sa-oma-p で「河口・塞がっている・浜・そこにある・もの」、即ち現在の「大黒岩」そのものをそう呼んだ……と考えてみましたが、うーん、ちょっと無理があるかも。
ヲタモエ
老者舞の「大黒岩」の西隣は尾根がせり出していて、尾根の西側が「ヲタモエ」です(地理院地図には描かれていませんが、何故か Google マップで確認可能です)。ヲタに萌えるというのは斬新な感じもしますが……。
「東西蝦夷山川地理取調図」(1859) にはそれらしい地名が見当たりませんが、永田地名解 (1891) には次のように記されていました。
Ota moi オタ モイ 沙灣
「釧路町史」にも次のように記されていました。
オ タ モ イ 波静かな砂浜の浦(砂地の湾)
オタ(砂浜)・モイ(浦・入海)で、岬の陰になっていて、波静かな砂浜の浦と解する。
町史の地名解は謎に充実しているなぁ……と思っていたのですが、もしかしたら「昆布森沿岸の地名考」をネタ元にしていたのかもしれませんね。実は「地名アイヌ語小辞典」(1956) にも ota-moy という項があり、次のように記されていました。
ota-moy, -e【H】/-he【K】オたモィ 砂浜にかこまれた舟入澗(ふないりま);砂浜の入江。[→ moy]
ota-moy で「砂浜・波静かな海」と見て良さそうですね。
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