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北海道のアイヌ語地名 (916) 「ニセイテシオマップ川・リクマンベツ川・ニセイノシキオマップ川」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)
地図をクリックしたら地理院地図に飛べたりします。

ニセイテシオマップ川

nisey-kes-oma-p
断崖・末端・そこに入る・もの(川)
(典拠あり、類型あり)

「ニセイテシオマップ川」は上川町字清川のあたりで石狩川に注ぐ東支流です。nisey は「断崖」で tes は「やな」を意味するので、nisey-tes-oma-p で「断崖・梁・そこに入る・もの(川)」かな、と考えたくなりますが……。

ただ、明治時代の地形図には「ニセイケシュオマナイ」という名前の川が描かれていました。また、永田地名解にも次のように記されていました。

Nisei kesh oma nai  ニセイ ケㇱュ オマ ナイ  絶壁ノ下ニアル川

知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」にも、次のように記されていました。

 ニセイケシオマナイ(Nisei-kesh-oma-nai 断崖・のしもを・入つて行く・沢)
知里真志保知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)※ 原文ママ

どうやら「ニセイテシオマップ川」の「テ」は「ケ」の誤記である可能性が高そうでしょうか。あとは「ナイ」がいつ「ップ」に変わったかという点ですが、「上川郡アイヌ語地名解」を含む「旭川市史」は 1960 年 3 月の刊行とされています。となると「ナイ」が「ップ」に変化したのはその後かと考えたくなりますが……。

ただ、大正時代に測図された「陸軍図」には既に「ニセイケシュオマップ川」と描かれていました。当時から「ナイ」で呼ぶ流儀と「ップ」で呼ぶ流儀が併存していた可能性もありそうな感じですね。そして知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」は、このあたりでは永田地名解の解釈に註を加えただけのものである可能性もありそうです。

旭川市史」が刊行されたのが 1960 年 3 月で、知里さんは 1961 年 6 月に亡くなっているので、仔細に検討する余力が無かった、ということかもしれません。

とりあえず、「ニセイテシオマップ川」は「ニセイケシオマップ川」の転記ミスの疑いが濃厚で、意味するところは nisey-kes-oma-p で「断崖・末端・そこに入る・もの(川)」と考えて良さそうです。

リクマンベツ川

rik-oman-pet?
高い所・行く・川
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

層雲峡のあたりの国道 39 号は、概ね石狩川の東岸を通っていますが、川沿いの崖を避けるために 3 ヶ所ほど(石狩川の)西岸・南岸を通っている場所があります。「万景壁」のあたりでも「万景壁橋」で西岸に渡り、「胡蝶岩橋」で東岸に戻っていますが、「リクマンベツ川」は「胡蝶岩橋」のあたりで石狩川に注いでいます(西支流)。

「胡蝶岩橋」のほぼ真南の山上に「陸満別」という三等三角点もあります(標高 707.6 m)。「胡蝶岩橋」のあたりは標高 500 m ほどなので、高さ 200 m ほどの断崖が聳えていることになりますね。

「東西蝦夷山川地理取調図」にはそれらしき川は見当たりません。また丁巳日誌「再篙石狩日誌」でも同様です。

「北海道地名誌」には次のように記されていました。

アイヌ語高いところに行く(人間がこの川を伝って)川の意。
NHK 北海道本部・編「北海道地名誌」北海教育評論社 p.327 より引用)※ 原文ママ

rik-oman-pet で「高い所・行く・川」ではないかとのこと。実際の地形とも合致する、妥当な解釈に思えます。

ロクマンベツ?

ただ一つ気になるのが、三等三角点「陸満別」の読みが「ロクマンベツ」と記録されているという点です。rok は「座る」という意味で、kamuy-e-rok-i で「神・そこに・座っている・ところ」という使われ方をします。

前述の通り、「リクマンベツ川」の河口付近からは高さ 200 m ほどの断崖が見えます。この断崖の上に神様が座っている(=人が軽はずみに近づくべきではない)と考えたとしても不思議はありません。ただ rok-oma-pet と考えるのは文法的におかしいので、ちょっと厳しいというのが正直なところでしょうか。

仮に元の形が kamuy-e-rok-i-oma-pet で、略しに略されて rok-oma-pet になった……とするのであれば、一応考え方としては成り立つような気もするんですけどね。

ニセイノシキオマップ川

nisey-noski-oma-p?
断崖・真ん中・そこに入る・もの(川)
(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

「ニセイノシキオマップ川」は国道 39 号の「胡蝶岩橋」から南東に 2 km ほど遡ったあたりで石狩川に合流する東支流です。このあたりの石狩川は左右に断崖が聳えていますが、「ニセイノシキオマップ川」は東側の断崖のど真ん中を切断するかのように流れています。

「東西蝦夷山川地理取調図」や丁巳日誌「再篙石狩日誌」には「ニセノシケ」という名前の川が記録されています。ところが永田地名解には次のように記されていました。

Nisei kashike omap  ニセイ カシケ オマㇷ゚  絶壁ノ上ナル處
(永田方正「北海道蝦夷語地名解国書刊行会 p.47 より引用)

これはどうしたものか……と思って知里さんの「上川郡アイヌ語地名解」を確かめたところ……

 ニセイカシケオマプ(Nisei-kashike-oma-p 断崖・の上・にある・者) 断崖の上にある川の義。
知里真志保知里真志保著作集 3『上川郡アイヌ語地名解』」平凡社 p.322 より引用)

ああ……。ここでもやはり永田地名解の解釈に註を加えただけになってしまっています。

永田地名解に対する知里さんのツンデレぶりは、後に山田秀三さんによって明らかにされていますが(「アイヌ語地名を歩く」草風館 p.55)、こうやって見てみると、やはり「いくつか致命的な問題がある」ものの重宝していたということが良くわかりますね。

永田方正の誤解?

ここまでの流れを見る限り、松浦武四郎が「ニセノシケ」と記録した川を、永田方正は「ニセイカシケオマㇷ゚」と記録し、ところが現在では「ニセイノシキオマップ川」に復旧?していると考えられそうです。明治時代の地形図では「ニセイノシキオマプ」と描かれているものと「ニセイカシケオマプ」と描かれているものの存在を確認できました。

どうやら永田方正が「ノシキ」を「カシケ」と誤解したと考えるしか無さそうな感じなのですが、何故このような誤解が生じたのかは謎……ですね。近くに「ニセイカウシュッペ山」があるので、つい手が滑ったのでしょうか。

「ニセイノシキオマプ」であれば nisey-noski-oma-p で「断崖・真ん中・そこに入る・もの(川)」と解釈できます。「ニセイノシキオマップ川」を遡ると確かに断崖の上に出ることになりますが、川自体は断崖のど真ん中を割って流れているので、kasi-ke(その上の所)ではなく noski(真ん中)と考えたほうがより素直な解釈に思えます。

いくつかの辞書を確認しましたが、noskinoske と同義であると見て良さそうです。

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