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アイヌ語地名の傾向と対策 (212) 「ピラポラオマナイ川・塩幌・トメルベシベ」

やあ皆さん、アイヌ語の森へ、ようこそ。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

ピラポラオマナイ川

pira-pa-oma-nay
崖・端・そこにある・沢

 

(典拠あり、類型あり)

イタリアのイモラ・サーキットには「ピラテラ」というコーナーがありました。トサとアクエ・ミネラーリの間の左コーナーです。懐かしいですね……。

さてピラポラオマナイ川です(イモラ関係無い)。上ワシップ川の北隣を流れている利別川の支流です。「ピラポラ」の意味が良く分からなかったのですが、「東西蝦夷山川地理取調図」には「ヒラハヲマナイ」と書いてありました。なるほど、これなら理解できます。pira-pa-oma-nay で「崖・端・そこにある・沢」でしょう。

ところで、「東西蝦夷──」を良く見ると、足寄町に「ヒラハヲマナイ」が複数存在することがわかります。現在「ピラポラオマナイ川」となっているのは左側(上流側)の「ヒラハヲマナイ」で、下流側の「ヒラハヲマナイ」は明治期の地図では「パナウンピラパオマナイ」となっています。なるほど、やはり「ピラパオマナイ」が複数存在するのは面倒なので、少なくとも下流側には「パナウン」(川下にある)という接頭詞をつけていたみたいですね。

塩幌(しおほろ)

sut-poro??
麓・大きい

 

(? = 典拠あるが疑問点あり、類型あり)

足寄町北部の地名・川名。愛冠と同じく、国鉄池北線に同名の駅がありました。ということで、まずは「北海道駅名の起源」を見てみましょう。

  塩 幌(しおほろ)
所在地(十勝国足寄郡足寄町
開 駅 昭和36年2月1日 (客)
起 源 アイヌ語の「シュツ・ポロ」(末広がる沢)から出たといわれているが、明らかでない。「スオプ・ポロ」(川床にえぐられた深みのある川)かとも思われる。
(「北海道駅名の起源(昭和48年版)」日本国有鉄道北海道総局 p.146 より引用)

この解釈は更科源蔵さんの「アイヌ語地名解」とほぼ同一なので、「──駅名の起源」も更科さんの担当部分だったのかも知れませんね。sut-poro で「裾・大きい」あるいは suop-poro で「箱・大きい」ではないかという説です。

山田秀三さんは、更科説を紹介した上で、更に次のように続けています。

明治29年5万分図や同27年道庁版20万分図ではシュポで,松浦図はそれらしい川にチホホロと書いている。もう一つ説を加えれば,あるいはシュプ(shup 激流,蝶鮫の産卵穴),またそれにオロ(or 処)を付けたシュポロだったのかもしれない。
山田秀三北海道の地名」草風館 p.301 より引用)

うーん、どんどん新しい説が出てきてしまいますね……。

山田さんの「蝶鮫の産卵穴」説については、ちょっと判断できないので保留するとして、音からは suop-poro が近そうに感じます。ただ実際の地形と合わせて考えると sut-poro を推したい所です。というのも、塩幌川が利別川に注ぐあたりは、このあたりでは割と広い土地なのですね。sut-poro で「麓・大きい」と解釈できそうに思えるのです。

最大の難点は「チホホロ」と sut-poro の音の相違でしょうか。sut-poro が「シュプォロ」と聞こえたのであればアリかな? と思ったりもしますが……。

トメルベシベ

tomo-{ru-pes-pe}??
中間の・{峠道}

 

(?? = 典拠なし、類型あり)

「ニューヨークへ行きたいかー!?」「おーっ!」「罰ゲームは怖くないかー!?」「おーっ!」

さて、トメルベシベです(何なんだこの前フリは)。足寄町北部で陸別町との境にも程近いところです。集落の南西側には「ペンケトメルペシュペ川」も流れています。

やっぱり罰ゲームが怖いので(なんでだ)、山田秀三さんの「北海道の地名」を見てみましょう。

トゥミ・ルペシペ(tumi-rupeshpe 戦の・峠道沢)の意らしい。他地方からの軍勢が侵入して来た,あるいは逃げて行った沢で,他地にもある名である。
山田秀三「北海道の地名」草風館 p.301 より引用)

ふーむ。「他地にもある名」とのことですが、恥ずかしながら初めて聞きました。tumi-rupespe で「戦争・路に沿って下っているもの」ということですね。

利別川十勝川の支流で、本別のあたりは十勝アイヌの居住地でした。ところが上流の足寄のあたりには釧路アイヌが住んでいたと言いますから、小競り合いがあったとしても不思議はありません。特に十勝アイヌはその好戦的なことが各地の地名説話に残っています。もっとも、この「トメルベシベ」は十勝アイヌの勢力圏では無かったのかも知れませんが。

実際の地勢に即して言えば、ペンケトメルペシュペ川沿いに山を越えて行くのはあまりメリットがありません。峠道としては悪くないのですが、足寄から陸別に向かうのであれば素直に利別川沿いを通れば良いからです。ですから、戦争のような特殊な状況でのみ意味のあるルートだった……という風にも解釈できてしまいますね。

2020/8/14 追記
網走にも「トモルベシュベ川」があるのですが、知里さんは「トモとは何かの中間の義で,ここではノトロ湖とアバシリ湖の中間を云う。そこでトモルペシペは網走湖との間に山を越えて降りて行く路のついている沢の義となる」と記していました。足寄のトメルベシベも、利別川足寄川の間の峠なので、tomo-{ru-pes-pe} で「中間の・峠道」と考えるのが自然に思えます。

ちょいと脱線して

最後に一つ、地形図を見ていて感じたことなんですが、この「ペンケトメルペシュペ川」の中流域が妙に広いことに気がつきました。もしかしたら、この部分は昔は沼沢地だった可能性があるのではないかな、と。

もしその通りだったとしたら、tomam-rupespe という解釈は成り立たないかな……とか。「トマ」と tomam を結びつけるのはちょいと(いや、かなり?)強引だとおもいますが……。

(この背景地図等データは、国土地理院地理院地図から配信されたものである)

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